流派当方腐敗総本山

【印】

　喉の乾きを覚えて、ふと目を覚ます。直前まで見ていたはずの夢の内容に思いをはせながら窓の外を見れば、空はまだ暗かった。
　ビルとビルの合間に沈みかけた満月が、頼りない光を投げかけている。内容が思い出せない夢とどこか似ていると思っていたら、すぐ側から雰囲気を木っ端微塵に砕く緊張感もなにもないいびきが聞こえてきた。
「……一回絞めるか、こいつ」
　中途半端な時間に起きてしまったせいか、それとも夢見が悪かったのか。それだけが原因じゃない気もする頭痛にこめかみを押さえて、緋勇龍麻は物騒なことを呟く。そして冗談半分で口にしてみたはずがあまりそうは聞こえなかった自分の台詞に、今度は苦笑をもらした。
「アホくさ。水飲も、水」
　そもそも、なぜまだ外が暗いうちに目を覚ましたのか。それは、喉が乾いたからだ。
　なんでこんな今さらなことを、自分自身に言い聞かせなければならないのか。そんな持って行き場のない理不尽さを感じつつ、龍麻は掛け布団を剥いで立ち上がる。
　喉が乾いているのも、なんだかイライラするのも、きっと夢のせいだ。内容は覚えていない、でも嬉しくない夢だった気がする。夢ごときに安眠を妨害されるなんて、龍麻にこれ以上ないほど腹立たしいことだった。
　隣に人がいたせいだろうか。否、そんなことはない。今まで、こんなすっきりしない夢は見たことがなかった。これまで見たことがあるのは、どちらかというと───たぶん、幸せな夢だ。内容は、やっぱり覚えていなかったけれど。
　きっと、夢と冬のせいだ。自分でもよくわからなかったが、強引にそう納得させる。そのままリビングと自室をつなぐ扉に手を掛けようとして、ふと龍麻の視線が止まった。
「……あれ？　なんでこんなもの、ここに出てるんだろ……あ、文化祭か」
　カラーボックスの手前に置かれた、クレヨンの箱。24色入りの、おそらく龍麻が小学生のときに使っていたものだ。そういえば文化祭のときに使うからと、部屋中を探し回った記憶を思い出した。
　そのまま、奥へとしまい忘れていたのだろう。あんなところに置いておいたら、そのうち落として床にばらまく。絨毯についたクレヨンの汚れはどうやって取ればいいんだろうと考えかけて、龍麻はふとそのまま視線を窓際へと移した。
　平和そうに寝こけている、客人の姿が見える。龍麻が起きだしたことにも、きっと気づいていない。
　龍麻はカラーボックスへと歩み寄ると、クレヨンを手に取った。
　クレヨンの成分はワックス、オイル、顔料ほか。人間の皮膚に描けないことは、ない。
　悪戯を思いついた子供のような表情になっている自分に気づいて、龍麻は心の中でも笑った。少しだけ、心の中で謝罪もしながら。


　用事の終わったクレヨンは、カラーボックスの奥へとしまい込んだ。しばらく、使うこともないだろう。
　なんとなくすっきりして、龍麻はそのままもう一度布団に潜り込む。ごろごろと空いたスペースを転がろうとする、先客を軽く蹴っておくことも忘れない。
　喉の渇きは、いつの間にかおさまっていた。


「だーッッ、なんだこりゃーッ！？」
　洗面所の方から、今日も元気に蓬莱寺京一の悲鳴が響き渡る。
　欠伸をしながら食パンをトースターに放り込んでいた龍麻は、後ろも見ずに冷たくその悲鳴を一蹴した。
「京一、朝っぱらからやかましい」
「やかましいじゃねェよッ！　なんで俺の芸術的な顔にこんなラクガキがあるんだッ！？」
　そう叫んだ京一に肩をつかまれて、強引に振り向かされる。嫌そうな顔をしていた龍麻だったが、その顔を一目見ると堪えきれずに小さく吹き出した。
　派手に足音を立ててダイニングへと飛び込んできた京一の顔は、確かにすごかった。色とりどりのクレヨンで、様々な字や記号が描かれている。描いた人は、さぞかし楽しかっただろう。……落書きの犯人は、当然の事ながら龍麻だが。
　暗い中、電気もつけずに実行したにしてはなかなかの出来だ。心の中で自画自賛すると、龍麻は優しそうな表情を作ってみせた。
「より芸術的にしてやったんじゃないか。ありがたく思え」
「ひ……ひーちゃん、ひどい」
　おそらく予想通りの台詞を、予想通りの表情で突きつけられたせいだろう。京一の表情までが、いっぺんに情けないものになる。
　それにもう一度吹き出して、龍麻は注意しないと京一には見えない場所にあるはずの、いちばん小さな落書きをちらりと見た。
「大丈夫、おまえにしかやんないから」
「それ、全然慰めになってねェよ……」
　文句を言うことすら諦めたのか、京一が悄然と肩を落とす。その背中を、龍麻はにこやかな笑顔を浮かべて軽く叩いた。

　それは、印だから。京一以外につけることは、きっとない。


【CAST-001】
●緋勇龍麻（ひゆう・たつま）
●蓬莱寺京一（ほうらいじ・きょういち）

かなり今さらな感じの日常小話in『東京魔人学園剣風帖』（ゲーム）。
ウン年置いてみても、やはり自分の基本傾向は変わってませんでした……。

【土産物の使い方】

「はい、これ。あげる」
「……なんだこりゃ？」
　そんな台詞と共に手のひらへと乗せられたものを見て、更紗はその切れ長な瞳を何度か瞬かせた。
　どちらかといえば、小さい箱。白い地に赤い模様が入ったその箱には、あまり見覚えのない文字が黒色で書かれている。それがどこの世界で使われている文字だったか、更紗はすぐに思い出すことができなかった。
　日頃は頼まれても頭を使おうなんて思わないくせに、すぐにわからないとなると悔しくなる。そんな天の邪鬼な性格のままに意地になって記憶をひっくり返していたら、その小箱をくれた張本人が無邪気な笑顔で答えを教えてくれた。
「煙草だよ。フェルザーンのね、地球でいちばん売れてる銘柄なんだって」
「タバコ？　いーのかよ、そんなモン持ち込んで？　つーか……なにお前、冴里が自分で買ったわけか？」
　存在する次元が違う世界、フェルザーン。次元管理官である冴里はそこを確かに任地としているが、なぜ煙草なのだろう。しかも、別の次元に存在するものを他の次元へと持ち込むことは、次元管理法で禁止されているはずだった。まあ、それはこの際置いておくとしても、だ。
　更紗は、自分の腰くらいの位置で惜しげもなく笑顔を見せている少年のことを見下ろした。この年下の友人・冴里は、実際にはもうすぐ18歳だというのにとてもそうは見えない小柄な身体をしている。簡単に言ってしまえばどう見ても10歳前後にしか見えず、少なくともこの世界では未成年としか思われないことが多い。この世界で喫煙を許されているのは成人のみで、そして確かフェルザーンでも未成年の喫煙は禁じられていたはずだ。
　このナリは小さいが根性は図太い年下の友人は、二重の意味で法を犯すことをやらかしてきたのだろうか。相変わらず怖いもの知らずなヤツだと勝手に納得していたら、冴里はあっさりと首を横に振った。
「ううん、違うよ。ちょっと諸般の事情でね、煙草の箱が必要になったから柴芭（しば）が買ったの。でもほら、用事終わっちゃったら使い道なかったんだよ。柴芭は煙草、吸わないじゃない？　僕もさすがにもう少し育つまでは、禁煙しといたほうがいいしね。べつに捨てちゃってもよかったんだけど、それももったいないから、あげる」
「……つまり、廃品処理か？」
　結構長かった台詞を身も蓋もなく要約して、更紗が呟く。それに気を悪くした様子もなく、冴里はひらひらと肯定の意を込めて手を振った。
「ま、そーゆーことかな？　だって煙草吸うような人、更紗以外に思いつかなかったんだもん。あ、一応ちゃんと次元管理局に持ち込み許可もらってるから安心してね」
「あ、そ。まぁ、そんならありがたく」
　滅多に貰えることなどない、異次元世界の土産だ。堪能しておかなければバチがあたるだろう、きっと。
　妙なところが貧乏性で、なおかつ妙なところは律儀な友人の言葉に、更紗はやや大げさに肩をすくめる。冴里のどんな口から出任せに騙されたのかは知らないが、こんなものに持ち込み許可を与えた次元管理局に対して、かなりの勢いで呆れていたからだ。


「……あれ？」
　それっきりもらった煙草のことなど忘れていた更紗だったが、ふとコートのポケットを探ったときに指へと触れた固い感触に、そんなやりとりを思い出した。
　この世界には本来存在しないはずの、煙草。作られた場所は違っても、きっと大きく違うことはないだろう。そもそもあまりに存在が違えば、こうやって別次元に持ち込むことすらできない。
「どうかなさいましたか」
　無意識のうちに口にした更紗の呟きが聞こえたのか、連れが落ち着いた声をかけてくる。この連れが落ち着いていないときを探す方が難しいが、たまにそれが腹立たしくなるのはなぜだろう。そんなまったく関係ないことを脳裏に浮かべながらポケットの中に入っていた物のことを説明しようとして、更紗はふと思いとどまった。
「なんでもねーよ。……そーだ、莱」
「なんでしょうか」
　なにくわぬ顔のまま顔も向けずにそう言った更紗の方へと、莱の視線が動く。莱が自分の方を向いたことに気づいた更紗は、眉をひそめてまったく違う方向を指差した。
「ちと、あっち向け」
「は？」
「いーから」
　名前を呼びつけておきながら向こうを向けという理不尽な要求に、莱は微かに首を傾げつつも従う。それに満足したのか、更紗はにやりと笑うとポケットから存在すら忘れられていた煙草の箱を取りだした。
　封は、すでに切られている。吸われた形跡のないその箱から、更紗が白い紙巻煙草を慣れた手つきで引っ張り出した。……その数、なぜか２本。
　右手と左手に、１本のずつの煙草。満足そうにそれを見やると、更紗は指に煙草を挟んだままの右手で莱の肩を軽く叩く。
「もういいぜ、こっち向けって」
「一体何をなさりた……むぐ？」
　まったく意図の読めないことをさせる更紗を問い質そうと莱が振り向きざまに口を開いたら、何かが押し込まれた。
　更紗が、面白そうに笑っている。右手は莱の方へと突きだしたまま、そして左手には１本の白い紙巻煙草。その煙草を軽く口にくわえた更紗は、突きだしたままの右手でひょいと莱の口元を指差した。
　……そこにも、同じ煙草が一本。
「……これは？」
　なぜかくわえる羽目になっている紙巻煙草を見つめながら、莱はとりあえずそれだけ口にした。
　煙草に見える。だが、よく更紗が吸っている銘柄とは違うことはわかった。
　これになにか意味があるのだろうか。いや、更紗の行動に意味があるのかどうかなんて、いちいち考えようとする方が馬鹿だ。大抵は、そんなものないのだから。
　瞬時にそれだけのことを考えた莱の心中などまったく知るはずもなく、更紗は白地に赤い模様の入った煙草の箱を軽く振ってみせた。これですべての説明は終わり、とでも言わんばかりに。
「おすそわけ」
「は？」
「フェルザーンの土産だってよ」
「……はあ」
「しかも次元管理局お墨付きのレア物だぜ」
「そうですか」
「一人じゃつまんねーだろ。お前もつきあえ、吸わないだけで吸えねーワケじゃねーんだし」
　普段煙草を吸わない相手に無理矢理煙草を押しつけて、この台詞。あまりにも更紗らしすぎて、文句の一言すら出てこない。
　それでも、この傍若無人で我が儘で気まぐれが服を着て歩いているかのような性格の持ち主が、一緒に何かをやれと要求するのはめったにないことだったから。
「……まあ、たまにはいいでしょう」
　ライターが欲しいのか、更紗が勝手に莱のスーツのポケットをあちこち探っている。
　これみよがしにため息をつきながらその手を押さえて、莱はＹシャツのポケットから更紗のために持ち歩いていたライターを取りだした。


【CAST-004】
●更紗（さらさ）
●冴里（さえり）
●莱（らい）

山もオチも意味もない日常小話in『惑星異聞』（オリジナル）。
強いて言うならヘタレ攻め万歳（それか）。

　第七領区ファルラックのフォレスティは、発達した科学文明と『魔法』と呼ばれる精神文明が同居する惑星グライアの南半球に位置する星諏（セイス）大陸にある一都市だ。樹海とも呼ばれるエルヴェール大森林沿いの集落が次第に大きくなっていった都市で、昔から変わらず樹海にへばりつくかのように存在している。常に自然の驚異にさらされ続けてきたこの都市の住人は、それゆえに自然と共存することを大切にしてきた。
　そのせいか、首都である珠苑樹（シュエンジュ）と比べるとかなりのどかな雰囲気が漂っている。すぐ背後にどこまでも続く緑の森が広がっているせいもあるだろうが、いちばんの違いはあまり高層の建築物がないということだった。
「……まー、おかげでうっかりビルにぶつけたりする心配はねぇけどな」
　何をうっかりビルにぶつけるつもりだったのかは知らないが、仏頂面でフォレスティの空港に降り立ったシヴァはそう呟いた。