[001]クレヨン

【印】

 喉の乾きを覚えて、ふと目を覚ます。直前まで見ていたはずの夢の内容に思いをはせながら窓の外を見れば、空はまだ暗かった。
 ビルとビルの合間に沈みかけた満月が、頼りない光を投げかけている。内容が思い出せない夢とどこか似ていると思っていたら、すぐ側から雰囲気を木っ端微塵に砕く緊張感もなにもないいびきが聞こえてきた。
「……一回絞めるか、こいつ」
 中途半端な時間に起きてしまったせいか、それとも夢見が悪かったのか。それだけが原因じゃない気もする頭痛にこめかみを押さえて、緋勇龍麻は物騒なことを呟く。そして冗談半分で口にしてみたはずがあまりそうは聞こえなかった自分の台詞に、今度は苦笑をもらした。
「アホくさ。水飲も、水」
 そもそも、なぜまだ外が暗いうちに目を覚ましたのか。それは、喉が乾いたからだ。
 なんでこんな今さらなことを、自分自身に言い聞かせなければならないのか。そんな持って行き場のない理不尽さを感じつつ、龍麻は掛け布団を剥いで立ち上がる。
 喉が乾いているのも、なんだかイライラするのも、きっと夢のせいだ。内容は覚えていない、でも嬉しくない夢だった気がする。夢ごときに安眠を妨害されるなんて、龍麻にこれ以上ないほど腹立たしいことだった。
 隣に人がいたせいだろうか。否、そんなことはない。今まで、こんなすっきりしない夢は見たことがなかった。これまで見たことがあるのは、どちらかというと───たぶん、幸せな夢だ。内容は、やっぱり覚えていなかったけれど。
 きっと、夢と冬のせいだ。自分でもよくわからなかったが、強引にそう納得させる。そのままリビングと自室をつなぐ扉に手を掛けようとして、ふと龍麻の視線が止まった。
「……あれ? なんでこんなもの、ここに出てるんだろ……あ、文化祭か」
 カラーボックスの手前に置かれた、クレヨンの箱。24色入りの、おそらく龍麻が小学生のときに使っていたものだ。そういえば文化祭のときに使うからと、部屋中を探し回った記憶を思い出した。
 そのまま、奥へとしまい忘れていたのだろう。あんなところに置いておいたら、そのうち落として床にばらまく。絨毯についたクレヨンの汚れはどうやって取ればいいんだろうと考えかけて、龍麻はふとそのまま視線を窓際へと移した。
 平和そうに寝こけている、客人の姿が見える。龍麻が起きだしたことにも、きっと気づいていない。
 龍麻はカラーボックスへと歩み寄ると、クレヨンを手に取った。
 クレヨンの成分はワックス、オイル、顔料ほか。人間の皮膚に描けないことは、ない。
 悪戯を思いついた子供のような表情になっている自分に気づいて、龍麻は心の中でも笑った。少しだけ、心の中で謝罪もしながら。


 用事の終わったクレヨンは、カラーボックスの奥へとしまい込んだ。しばらく、使うこともないだろう。
 なんとなくすっきりして、龍麻はそのままもう一度布団に潜り込む。ごろごろと空いたスペースを転がろうとする、先客を軽く蹴っておくことも忘れない。
 喉の渇きは、いつの間にかおさまっていた。


「だーッッ、なんだこりゃーッ!?」
 洗面所の方から、今日も元気に蓬莱寺京一の悲鳴が響き渡る。
 欠伸をしながら食パンをトースターに放り込んでいた龍麻は、後ろも見ずに冷たくその悲鳴を一蹴した。
「京一、朝っぱらからやかましい」
「やかましいじゃねェよッ! なんで俺の芸術的な顔にこんなラクガキがあるんだッ!?」
 そう叫んだ京一に肩をつかまれて、強引に振り向かされる。嫌そうな顔をしていた龍麻だったが、その顔を一目見ると堪えきれずに小さく吹き出した。
 派手に足音を立ててダイニングへと飛び込んできた京一の顔は、確かにすごかった。色とりどりのクレヨンで、様々な字や記号が描かれている。描いた人は、さぞかし楽しかっただろう。……落書きの犯人は、当然の事ながら龍麻だが。
 暗い中、電気もつけずに実行したにしてはなかなかの出来だ。心の中で自画自賛すると、龍麻は優しそうな表情を作ってみせた。
「より芸術的にしてやったんじゃないか。ありがたく思え」
「ひ……ひーちゃん、ひどい」
 おそらく予想通りの台詞を、予想通りの表情で突きつけられたせいだろう。京一の表情までが、いっぺんに情けないものになる。
 それにもう一度吹き出して、龍麻は注意しないと京一には見えない場所にあるはずの、いちばん小さな落書きをちらりと見た。
「大丈夫、おまえにしかやんないから」
「それ、全然慰めになってねェよ……」
 文句を言うことすら諦めたのか、京一が悄然と肩を落とす。その背中を、龍麻はにこやかな笑顔を浮かべて軽く叩いた。

 それは、印だから。京一以外につけることは、きっとない。


【CAST-001】
●緋勇龍麻(ひゆう・たつま)
●蓬莱寺京一(ほうらいじ・きょういち)

かなり今さらな感じの日常小話in『東京魔人学園剣風帖』(ゲーム)。
ウン年置いてみても、やはり自分の基本傾向は変わってませんでした……。
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