[010]トランキライザー(抗鬱剤、精神安定剤)

【声】

 白い。否、黒い。
 強すぎる光は、色彩を不明瞭にさせる。白とも黒ともつかない、もしかしたらもっと他の色かもしれない。そんな色とも言えない色があふれた空間を、何をするでもなくたださまよっている。
 なぜ、どうして。聞いて答えが返ってくるのなら、質問責めにもする。口を開いてくれないというのなら、実力行使を考えないでもない。だがそれは、あくまでも問い質すべき相手がいる場合にとることができる行動だ。状況を説明してくれそうな人どころか見渡す限りものすら見あたらない場合は、前提条件からして違う。
「まあ、たぶん夢だし」
 なるようになるだろう。
 これ以上なく現実的といえば現実的、いい加減といえばいい加減この上ない結論を出すと、霞上樹那は自分自身を納得させた。
 なぜ納得させなくてはいけなかったのかは、わからなかったが。
「大体、夢のくせになんでこんなハッキリしてんのよ。いや、なんてゆーの? 舞台設定はメチャメチャだけどさ」
 夢なのに。夢だとわかっているはずなのに、夢独特の感覚がない。それが樹那には不思議さと、同時に不審さを感じさせている。
 そもそも夢なのに、ちゃんと考えないと話が進まないところが変だ。日頃、目覚めた後もおぼろげに覚えている夢で繰り広げられている光景は理不尽かつどこまでもアバウトで、それこそ樹那が夢を見つつツッコミを入れる隙間もないくらい、夢を見ている本人そっちのけで進むというのに。
「まあ、でも。夢だし」
 いつもとはまったく違う、頭を使わないといけない夢も、アリなのかもしれない。
「普段頭使ってないのに、夢で頭使うってのもなんかもったいな〜……」
 ブツブツとそう呟くと、樹那はもう一度あたりを見回した。
 表現しがたい色に埋め尽くされた空間。何もなく、誰もいない。樹那以外には、誰も。
 なぜ、誰もいないんだろう。今まで、一人になったことなんてなかった。もしかしたらあったかもしれないが、覚えてはいない。少なくとも樹那が覚えている一番古い記憶には、人の良い兄と、やっぱり人の良い母がいた。母はもう、いないけれど。
「…………おにーちゃん?」
 ただ一人残された、家族をそっと呼んでみる。
 反応は、ない。かわりに、聞き慣れない声が聞き慣れない音を発した。
『────』
 聞きたくない、名前を。
「なに、それ。聞こえない」
『────』
「ちがう、あたしはそんな名前じゃない。そんな人知らない、あたしの夢の中でそんな人探さないで」
『────』
「だから、思い出させないで。あたしがあたしじゃなくなるから……え?」
 ……思い出す。
 自分の口をついで出た言葉に、樹那は首を傾げた。
 思い出す。それはつまり、忘れているだけで本来は知っている、ということ。
 自分は何を知っていて、そして何を忘れているというのか。見当もつかないが、今の樹那にわかるのは───どうやら自分はそれを思い出したくないらしい、ということだけだった。
 だって、自分でそう言っている。
『────』
「だから、知らないってば」
『────』
「だから、その人がどーしたってのよ!?」
 いくつもの感情が入り乱れて、つい出した大声はなんだか悲愴なものに聞こえた。空間に響いた自分の声に樹那は一瞬驚き、そしてそのまましばらく凍り付くことになる。
『───ねぇ』
 聞き慣れない声が、聞き慣れた声にいつのまにか変わっていた。色があるのかないのかわからない空間に、やや舌足らずな───幼い自分の声が響く。
『ひとりに、しないで』
 小さい頃の自分が泣いている。姿が見えなくても、声でわかる。でも、樹那は一人にされたことなんてない。そんな泣き声を聞いたこともない。なおになぜ、知っているような気がするのだろう。
「……あなた、誰?」
『……? だれ、だろう?』
 無意識のうちに口からこぼれ落ちた問いかけに、聞き慣れた、でも知らない声は不思議そうにそう答えた。

 ───その後は、覚えていない。


「つーか、なんなのよ」
 覚えてはいないが、目覚めは最悪だった。
 目覚ましが鳴る前に起きたなんて、それこそ何年ぶりだろう。これで心身共にさわやかであれば言うこともないが、今の樹那に爽快という単語はまったく縁がなかった。
「オチがない夢なんて、アリ!?」
 実際はオチなんて関係ないのだが、とにかく文句をつける。それだけではどうにもイライラを解消できなかったので、腹立ちまぎれに手元にあった枕を思いっきり投げてみた。
 深く、考えず。適当な方向に。
「なに騒いで……うぎゃ」
 ぼす。
「……あ」
 そして。それはじつにすばらしいタイミングで、部屋のドアを蹴り開けた人物の顔に命中した。
 投げたのが枕で幸いだ。これが目覚まし時計だったら、目も当てられないことになっている。
「俺が何をしたとゆーのだ……」
 当然そんなことを知るはずもない、いきなり枕にお出迎えされる羽目に陥った霞上輝柊は、枕に潰された鼻をさすりながら恨めしげな声を上げた。その枕を投げつけた張本人である樹那としては、もう笑って誤魔化すしかない。
「あ、あはははは。どしたの、おにーちゃん。早いじゃん」
「あのな、樹那。女らしくしろなんて無理難題は要求せんから、せめて朝っぱらから暴れんな」
 諦めたように、輝柊がため息をつく。まったくもってその通りなので、樹那には効果的な反論ができない。なので、じつに情けない言い訳をするだけに留まった。
「暴れてないもん。ちょっと夢見が悪かったから、ストレス解消に枕投げただけだしっ」
「投げんなよ……てか、夢見ぃ? あー、わかった。デザートコースを食おうとしたとこで目が覚めたとか、そんなんだろ?」
「そんなんじゃないーっ! けど、そっちのほうがもっと悔しいかも……」
 つい条件反射でその光景を想像する。こういう時の想像力というのは素晴らしいもので、食べたかったデザートやケーキの数々が一瞬のうちに脳裏に広がった。……これが目の前にあるというのに食べられなかったとしたら、意味不明な夢を見た後とは比べ物にならないくらい腹が立つだろう。
「ならいいじゃんよ。大体、おまえの脳味噌ならイヤなことはすぐこぼれて落ちるだろ? ザルなんだし」
 そして樹那がそのままデザートづくしに思いをはせていたら、枕を投げ返してきた輝柊がさらりととんでもないことを口走った。投げ返された枕を構え直して、樹那も即座に言い返す。
 すでに、夢のことなんて忘れかけていた。
「あのね。さりげにひどいこと言ってませんか、おにーちゃん? かわいい妹をとっつかまえて」
「任せろ、そんなとこは兄妹そっくりな自覚が十二分にある」
「つまり、おにーちゃんもザルなんだね」
「ザルじゃねーよと主張してみたいが、んなこと言ったって即却下するだろ?」
「うん」
「てゆーか、枕に当たり散らしてる場合じゃねーぞ、樹那」
「なんで?」
「時計見ろ、時計」
「時計? 目覚まし鳴る前に目が覚めたから余裕……って、ぬああああ!?」
 デジタル表示の時計が示す時間は、バイトに行くために家を出る時刻。
 もしかして、もしかすると。無意識のうちに目覚ましを止めた後、樹那は二度寝していたのだろうか。
 それなら、輝柊が起きているのも頷ける。なんて、のんきにそんなことを考えている場合ではなくて。
「やーばーいーっ、遅刻ーっ! おにーちゃん、このへん片づけといてっ!」
「って、また枕投げてくなっ! ついでにレンジに突撃かますな!」
「あたしがぶつかったくらいじゃ壊れないって! たぶん……」
「おーまーえーなー」
 ブツブツと文句を言いつつ、結局、兄は妹が散らかした後を片づけている。そんな輝柊の姿を視界の隅で確認して、樹那はなんとなく安堵の笑みを浮かべた。
 何が不安だったのかも忘れたけど、そんなものはどこかにいってしまった。いつも通りの朝の光景に、夢のせいでささくれていた精神が癒されていくのを感じる。
 きっとこの先なにがあっても、家族がいるから。一人しかいないけれど、誰よりも自分のことを知っていてくれる人がいるから。
「うわー、ま、間に合うかな。行ってきまーすっ!」
「いーから前向け! 前向いて走れっ!」
 一人じゃないから平気な気が、した。


【CAST-010】
●霞上樹那(かがみ・じゅな)
●霞上輝柊(かがみ・きしゅう)

ほのぼの兄妹話in『惑星異聞』(オリジナル)。
血の繋がってない兄妹恋愛物も好きですが、健全200%に兄妹仲が良いだけの話も好きです。
でも自分で書く場合、いちばん好きな男女ペアものは「恋愛色がかけらもなく、さらにくだらないうえに低レベルな口喧嘩」かもしれません……(あほ……)。
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