[035]髪の長い女

【楽園】

 その店の存在に気づいたのは、まさしく偶然だった。
 目の前で信号が赤に変わらなかったら、きっと目にも入らなかったに違いない。信号待ちという何をするにも中途半端な空き時間にふと周囲へと視線をさまよわせたら、たまたま視界に入った。目に留まったのが不思議なくらいだ。
 それは小さな看板が出ているだけの、目立たない一戸建ての家だった。看板が出ているからかろうじて店だとわかるようなもので、外から見ただけでは何を取り扱っているのかまるでわからない。よくよく見てみれば、控えめなショーウインドウには品の良いアンティークが置かれている。骨董品屋だと言われれば、無理なく納得できそうなたたずまいではあった。
 アンティークに特別な興味はない。時代を越えて人の手を渡ってきた芸術品たちの声を聞く能力でも持っていれば違ったかもしれないが、あいにくアンティークを鑑賞するために彼女が持ちあわせているのはごく普通の美意識だけだった。だからそのまま店から視線を外そうとして──ふとその動きが止まる。
 しばらくそのまま何かを考え込んでいた彼女は、今度は確固たる意志を持ってその店を見つめた。ショーウインドウの奥、ここからでは見えるはずもない店の中をじっと見据えている。
 信号が青に変わった。止まっていた人々がふたたび流れ出しても、彼女はそこから動かない。ちらりと左手首にはめた腕時計へと視線を走らせると、やっと彼女は動き出した。
 渡るために信号が変わるのを待っていたはずの横断歩道を無視して、踵を返す。茶色の長い髪が、ふわりと風にのってなびいた。
 そして、彼女はその小さな店の扉を開く。扉に飾られた陶器の鈴が、ちりん、と透明な音をたてた。


「ようこそいらっしゃいませ」
 店内のひんやりした空気に、聞こえてきた声が違和感なく溶ける。邪魔にならない、でもつい意識を傾けてしまう声。
 店へと足を踏み入れた彼女を出迎えたのは、吸い込まれそうな漆黒の髪と瞳を持つ女主人だった。
「なにをお探しでしょうか?」
 綿のようにふわりとした微笑みが、少しだけ女主人の印象を可愛らしく、柔らかいものにする。それに気づいた彼女は、女主人に向かって小さく笑ってみせた。
 作られた、笑顔。客商売に携わる者としては必要不可欠の、営業用の笑顔。
 明らかにそれであるのに一見そうと思わせない女主人の笑みは、彼女にとって好ましいものだった。
 だから、彼女は笑顔のまま口にする。
「ええ、そうね。探し物よ」
 真っ直ぐに、取り繕うことなく、本当のことそのままを。
「世界の壁を越えた迷子を、探してるの」
 その言葉を耳にした女主人の笑顔がわずかに歪む。動きがぴたりと、まるでネジが切れた古い時計のように、止まった。
「心当たりがあるでしょう? ないとは……言わないわよね」
 彼女の問いに返事をする者は、いない。しばらくの間、店内に静寂がおとずれる。
 規則正しいリズムでアンティーク時計の秒針が時を刻み、長針がほんのわずかに音を鳴らして数回動いたとき、ようやく女主人が息を吐いた。
 それはおそらく、何かを諦めたため息。
 だが、やっと探していた出口を見つけた安堵の吐息のようにも聞こえた。
「貴女はこの世界をかたちづくる存在ではありませんのに、わたくしのことを異端として追い払うんですのね」
 柔らかく作った笑顔を捨て、少しきつめな美貌そのままに、女主人は挑むような視線を彼女へと向ける。はっきりと感情の色を現すその冴え冴えとした表情は、黒髪の女主人によく似合っていた。
「だって、これが私のお仕事なんですもの。悪く思わないでちょうだい」
 気性の激しい人は、好きだった。吸い込まれるような艶やかな外見に、炎のような激しい心。彼女にしてみれば、その取り合わせは申し分がない。
 違反を取り締まる管理官が違反者に抱くべき感情でないことは、彼女がいちばんよく知っている。
 だが、彼女の選択肢に気に入った相手だから見逃す、という項目はない。むしろ逆だ。
 気に入った相手だからこそ、このまま異世界で理の歪みの元となりはてるのではなく、本来属する世界へと帰ってほしかった。
 そんな彼女の心が伝わったわけではないだろう。年齢よりも若くそして必要以上に頼りなげに見える彼女の外見に、女主人が恐怖を覚えたということもありえない。
「べつによろしいのですけれど。還る術をなくしたわたくしが、そもそも片手落ちだったのですわ」
 それでも黒髪の女主人が肩をすくめて口にした言葉は、彼女の意図を汲んだものだった。
 どこかほっとしつつも拗ねたかのような言葉の響きが、女主人を少しだけ幼く見せる。
「ですけれども、この世界は居心地が良かったんですのよ。もう少し堪能していきたかったのですわ」
 風など吹くはずのない店の中で、ゆるやかに空気が動いた。
 ばさりと音を立てて、黒い羽根が背に広がる。流れる黒髪の間から、白銀の角が覗いた。
 顔かたちの美しさはそのまま、一瞬のうちに変貌を遂げた女主人の姿を持つ生き物を、彼女は昔見たことがある。それはこの世界とも彼女が本来属する世界とも違う次元に存在する、第三の世界の生命体だった。
「まあ、あなたにとってはそうでしょうね。食事に困ることはなさそうだし」
 確か、夢魔。他者の夢に満ちるエネルギーを糧とする、魔物。あの世界では、そう呼ばれていた。
 この若い世界に生きる人々は、夢と希望に満ちている。夢魔たちにとって、ここはおそらく楽園に等しい場所のはずだ。
「楽園とはやはり、永住できる場所ではありませんのね」
 楽園からたった今追われようとしている夢魔がつまらなそうに呟けば、その事態を導いた張本人がそっとその手を取る。
 彼女の両手に触れた夢魔の手が、ふわりと柔らかい光に包まれた。
「楽園なんて、その存在そのものが泡沫の夢よ。夢を糧にする夢魔が、夢に飲まれてどうするの」
「それは……屈辱なのですわ」
 夢魔の声色に、少しだけ悔しさがにじむ。それが彼女に指摘された内容のせいなのか、それとも指摘されるまで気づかなかったこと自体に向けられたものなのか、おそらく本人にもわかっていない。
「ふふ……碧の流れのさだめにおいて、界と理からはぐれしかの者を正しき地へと還らせよ。言霊に従いて碧の魔術師が願う」
 口の端に柔らかい笑みをたたえたまま、彼女は静かに呪文を紡ぐ。
 送り帰されることそのものは受け入れても協力する気はさらさらなかった夢魔ですら、その言葉の流れの美しさに知らず耳を傾けていた。同時に、夢魔の心に郷愁の念がわき起こる。
 言霊、それは願いの力。
 それは術を使うものの願いだけではなく、かけられる者の願いすらも力とする。
 二人の願いを得て力を増した彼女の言霊は、碧くゆらゆらと輝く光の門となってその場に実体化した。
 故郷へと続く、門。
 女主人としてこの店に君臨していた夢魔も、その門を目にしてしまえばもう迷うこともしない。否、できない。
「それではごきげんよう」
「もう、迷子にならないようにね」
 自ら進んで光の門へと足を向けた夢魔の背中に、彼女は優しく声をかける。
 返事は、一言。
「努力いたしますわ」
 きっとそのうち、また会うことになるのだろう。根拠など、どこにもないけれど。
 足元からわき上がる碧い光に溶け込むかのように、夢魔の姿が消えていく。
 異世界に墜ちた夢魔が最後に残したものは、界を渡す魔術師へと向けられた艶やかな笑顔だった。


【CAST-035】
●カノン・エルフェルム(彼女)
●魅夜(みや)(女主人)

次元管理官の言霊使いと夢魔の話(オリジナル)。
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