紅い時間 … ←back □ next→


 

 

 

 

 −the 1st DAY−Obverse

 

 

 目を開けた途端に飛び込んできた風景は、まったく覚えのない場所のものだった。

「……ここは?」

 無意識のうちに呟いていた声は、かすれていた。たしかに自分が出した声のはずなのに、聞き慣れないそれはまるで他人のもののように聞こえる。

 身体を起こすと、めまいがした。軽く頭を振って、額を手で支える。吐き気もするようだ。体調は、決していいとは言い切れない状態のようだった。

 そのまま横になって、毛布にくるまってしまいたい。そんな欲求を押さえつけるように顔を上げると、ロテールはまわりを見回した。

 石造りの壁。板張りの床。きちんと雨戸まで閉じられた窓。明るいとは言いがたかったがきちんと整頓された、清潔感溢れる部屋に見える。

 ベッドサイドには、水差しとグラス。薬草を調合するための機材もいくつか置いてある。ランプの火は消されていて、そのせいか今が昼なのか夜なのかもわからない。

 そもそも、なぜ俺はこんな見知らぬ場所にいるのだろうか?

 やっとその疑問に思い当たって、ロテールは首を傾げる。一体自分になにが起こったのか、思い出せない。ここで目覚める前、自分は何をしていた……?

「……う……っ」

 そこまで考えて、こみ上げてきた吐き気にすべてを思い出した。

 頭痛が酷くなる。視界が回る。顔から血の気が引いていくような気さえする。

 自分があんな目にあった理由もわかる。誰の差し金かも想像がつく。どうすれば今後こういうことが起こらないのかも理解している。そして、それを実行するわけにいかないことも知っている。

 そうである以上、なかったこととして忘れてしまえ、と理性は言っていた。おそらく、それがいちばん正しいのだ。

 身体の傷は治すことができる。男である以上、強姦されたからと言ってなにか支障があるわけではない。運が悪かった、それですべてを済ますことができる。

 

 忘れてしまえ。

 

 だが理性ではわかっていても、それを感情が受け入れられるとは限らない。忘れたくても、恐怖とともにこびりついてしまった記憶はそう簡単に消えてはくれない。

 全身が冷えていく。背中を冷たい汗が流れる。

 思い通りにならない感情と身体をなだめるので精一杯だった。他のことにまで、意識を向けている余裕なんてなかった。

 だから扉が開く音も聞こえなかったし、部屋に人が入ってきたことにも気づかなかった。

 汗でシャツがはりついた背中に、人の温かさが感じられる手のひらが置かれるまで。

 

 

「……っ、誰、だっっ!?」

「……失礼、驚かせたかな?」

 無意識のうちに、背に添えられた手を振り払っていた。

 傍らに見知らぬ人物が立っていたことより、ロテールはその事実に愕然とする。

 伸ばされた手に害意は感じられなかった。おそらく、背中をさすってくれようとしたのだろう。優しく暖かい気配は感じられても、振り払わなければいけないような感触はなかったのに。

 近寄る気配に気づかなかったのは、自分の感覚で手一杯だったからだ。相手が気配を押し殺していたわけではない。驚くことはあっても、そこまで過剰な反応を示すことはないはずだった。

 だが、振り払ってしまった。それも、無意識に。

 何故。自分に問う。答えは簡単に出てきた。

 

 他人に触れられるのが、怖かったのだ。

 

「まだ横になっていたほうがいい、失血が酷かったからね。立ち上がったりしても、どうせひとりじゃ歩けないよ」

 親切心を振り払われた青年は、そのことを別段気にした様子も見せずに軽く肩をすくめてみせる。

「……失血?」

 ロテールの記憶にはない顔だ。だが着ているものは、近衛騎士団の制服のようである。

 制服も黒、髪も黒、あらわになっている瞳も黒。もう片方の瞳は髪に隠れて見えなかったが、おそらくそちらも黒い瞳なのだろう。

 その青年の額を飾る額環の赤い色を見て、ロテールは自分が手首を切ったことをようやく思い出した。

 自分で噛み切ったはずの手首に視線を投げる。傷は、跡形もない。

 他の場所にあったはずの外傷も、消えている。どうやら目の前のこの人物が、治癒魔法でもかけてくれたらしい。

 青年の外見はただの近衛騎士に見えないこともないが、発する気がかなりの魔力を感じさせた。おそらく、かなりの魔法の使い手。

 瞬時に、そこまで読みとる。たとえ失血が酷かろうが他人との接触が恐怖となろうが、判断力だけは鈍っていないようだった。

「ああ……そうか、忘れてた。……あんたが助けてくれたのか? すまない、世話をかけたな」

「おやおや……自殺未遂をやらかしておいて忘れていたってのも相当だけど、まさか謝罪されるとは思わなかったな」

「別に、どうしても死にたかったわけじゃないからな」

 呆れたように目を瞬かせる青年に向かって、ロテールは苦い笑みを見せた。

 すべてがどうでもよくなったから、死んでみようと思った。ただそれだけだったから、死ねなくてもさほど精神的打撃もなにもない。「ああ、死ねなかったか」程度の感慨しかない。

 否、正確には死ねなかったからといってもう一度自殺を試みるほど、気力自体がないのだろう。

 当然、「生き残ったからには生きなければ」という思いがあるわけもない。ただ、死ねなかったからには生きるしかない。それだけだ。

 すべてがどうでもよかった。だから、ここがどこなのか、目の前の人物が一体何者なのか、それすら追求する気が起こらない。

 青年がなんのために自分を助けたのかは知らないが、それが気まぐれの結果だろうと誰かに頼まれたからであろうと、まだ自分の人生が続くことは事実である。

 このまま、青年が気を変えて自分を殺してくれないかと思わなかった、と言えば嘘になる。

 もう一度自ら命を断つ気もなかったが、もう一度前向きに生きていこうという意志もなかったのだ。

 だから、

「……まあ、いいけどね。で、どうする? まだ動けないとは思うけど、家に帰りたければ送っていくよ。それとも、騎卿宮のほうがいいかい?」

 壁にもたれて腕を組んだ黒ずくめの青年にそう問われても、ロテールにはぼんやりとした視線を返すことしかできなかった。

「……帰る? どこに?」

「どこにって……いつまでもここで天井を眺めてるわけにはいかないだろう? 1日とはいえ燐光の聖騎士が行方不明になってるっていうんで、王都はけっこう大騒ぎなんだから」

「ああ、やっぱり俺が誰かを知ってたから助けたんだな……大騒ぎ?」

 とりあえず、青年が自分を助けた理由だけは納得する。

 もっともただの彼個人を必要とする人がいるはずはないから、悩むまでもなくヴォルト伯爵であり燐光の聖騎士である自分の命を散らすわけにはいかない、というきわめて政治的な理由でしかあり得なかったのだが。

 でもそれなら何故、命を取り留めたはずの自分が行方不明になっていて、なおかつそれが大騒ぎになっている?

「そうじゃなかったら、わざわざ自殺しようとした相手を助けたりするようなお節介は焼かないよ……はいはい、そんなことを聞きたいわけじゃないって?」

 ロテールを観察しているのか単に何も考えていないのか形容しがたい表情をはりつけていた青年は、ベッドから投げられた問うような視線に一瞬だけ呆れを含んだ苦笑を見せた。

「いろいろ事情があって、俺が君を拾ったことは表沙汰にできないからね。現状、君は行方不明のままなんだよ。とりあえず傷口だけふさいで君の家に放り込んできてもよかったけど、意識を取り戻した途端にまた手首切られても困るからね」

 まあ、いらない心配だったみたいだけど。

 そう続けて、青年は答えを促すかのようにこちらを見つめてきた。

 ロテールとしてはその「いろいろな事情」が知りたかったのだが、どうやら問いつめても口を割ってくれそうな相手ではなかったのであきらめる。そして、表沙汰にできないような人物に拾われてしまったらしい自分のことを、少しだけ考えてみた。

 青年の懸念は、ある意味まったくの杞憂だ。確かにロテール自身に生きる意志はないに等しいが、自殺を繰り返す気もない。身体の傷はふさがっているのだから、あとはそれこそ寝ていれば体力も回復するだろう。寝ているだけなら、どこでもかまわない。そう、なにも行方不明になって王都を騒がせてまで、ここにいる必要はない。

 だが、今は他人に会いたくないのも本当のことだ。身体の傷は治っても、まだ心の傷は生々しく血を流している。忘れられない恐怖が心の奥に残っているうちは、あまり他人と接触したくない。

 なぜ? 人間という存在自体に恐怖を覚えていることを、気づかれたくないからだ。

 忘れ去ることはできなくても、せめてこれ以上傷口が広がらないようになるまでは。

 誰にも……特に知り合いには、会いたくなかった。

 だから、冷静さを装って口を開く。傷ついたのは身体だけ、心には傷一つ受けてない、と自分に言い聞かせて。

 だがロテールの幼い虚勢は、たやすく破られることになる。

「しばらく、ここにいる。この体調のまま帰っても、余計に詮索されるだけだ」

「……まあ、そのほうがいいかもね。その接触嫌悪症があからさまに発露しなくなるまでは、ね」

 聖騎士団への連絡は、うまくやっておくよ。

 そう言いおいて扉を出て行った青年の最後の言葉は、言われたくなかったことを突きつけられ、思考を凍らせてしまったロテールの耳には入っていなかった。

 


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