紅い時間


 

 

 

 

 −Prologue−Obverse

 

 

 視界の隅に、赤い……緋い流れが見えた。

 

 細く白い手首から流れ出る液体が、地面に赤い染みを作る。このままほうっておけば、赤い水たまりができる頃に自分の命も消えるだろう。

 傷だらけの身体は、いつもより重く感じる。せめて楽な体勢になりたいと身じろぐが、傷つけられ無理な使い方をされた身体は、わずかばかりも動きはしなかった。

 すべてがどうでもよくなって、回復魔法の呪文を口にするかわりに手首の血管を噛みきったのはつい先刻のことだ。人間の身体の急所は、知識としてたたき込まれている。確実に命を絶つのなら本当は頚動脈を断ち切るべきなのだろうが、ここには刃物がない。攻撃魔法を使って自分の身体をこれ以上傷つけるのも、あまり楽しくない。となると、原始的ではあるがこの方法しかなかった。

 なんでこんなことをしたのか、と言われると何も言えない。ただ、なんとなく、傷つけてみたくなった。それだけだ。

 自分の命の価値など、元々認めていなかった。さほど、生に執着しているわけではない。自分の意志に反したことばかりを受容しなければ生きていけないのなら、別にがむしゃらに生きていこうとも思わない。今までだって、なんとなく生きてきたのだ。なんとなく死んでみたくなっても、いいような気がする。

 もう感覚も麻痺してしまったのか、痛みは感じない。視界も霞んでいるが、思考も霞がかかっているかのように働かない。特に考えたいことがあるわけでもないし、頭が働かなくてもいいかと思ったとき、ふと弟の顔を思い出した。

 領地に残してきた、弟。自分がいなくなれば、途中で放り出してしまった重責はすべて弟の肩に乗せられることになる。少しだけ心が痛んだが、すぐにどうでもよくなった。

 ふ、と意識が遠くなる。深淵の闇が見える。昔は恐ろしかったはずの闇が、今は唯一の救いのように感じられた。

 身体が命じるままに、彼はその目を閉じる。

 

 心の闇に堕ちていく自分の姿が、なぜか見えた。

 

 

 

−Prologue−Reverse

 

 

 単なる気まぐれと思いつきで足を伸ばしたその場所に、なぜかそれは倒れていた。

 

 まず目を引いたのは、床に広がる紅。見慣れたその色、そしてそこに漂う嗅ぎ慣れた匂いに、それが血だとわかる。

 血を床に滴らせ、壁にもたれて座り込むその人物は、まだ子供といっても差し支えのない年齢らしき少年。全身に殴打や蹴りなどの暴行で作ったと思われる傷を負い、そして不自然に乱れた着衣がやはり望まずに与えられたであろう陵辱の後を残している。

 うつむいたその表情は見えない。出血の量からすると、おそらくもう意識を失っているのだろう。床に投げ出された左の手首と露にされた下肢に伝う紅い筋が目に入ったが、直接的な原因は手首の傷のほうらしい。

 見れば、わかる。手首の傷は、ほかの誰かにつけられたものではない。この少年が、自分でつけたものだ。それも、自ら命を絶つことを目的に。

 おそらく想像もしていなかった状況に叩き落とされたあとに襲ってきた、衝動的なものが原因だろう。ここは王宮内とはいえ滅多に人が通る場所ではないから、こういうことが起こっても決しておかしくはない。

 だが、決して見ていて楽しいものでもない。

 わずかに眉をひそめてその光景を見つめていた青年はそのままきびすを返そうとして、ふと何かを思い出したようにふたたび少年の方に視線を返した。

 足音をたてずに近寄ると、少年の顔をのぞき込む。途端に、青年はあからさまに嫌そうな顔をした。

 見覚えがある顔だったのだ。

 この少年の正体がわかってしまった以上、このまま見て見ぬふりはできない。今、彼にこの世から消え去られるわけにはいかない。彼の消失と共に、この王国はかなりの混乱を抱え込むことになるだろう。

 それはこの国の守護を担う青年にとって、決して喜ばしくない事態だ。

 深いため息をついた青年は、血溜まりを避けて少年の傍らに片膝をついた。

 自殺を試みた相手の命を助けるなんて、長い人生で初めてのことだ。労力を費やして助けても、おそらく恨み言か文句しか返ってこないと思うとやる気も失せる。

 それでもこれが、自分の仕事。

 少年に手をかざし、軽く意識を集中させる。軽い治癒魔法程度であれば、呪文を唱えるまでもない。

 外傷よりも、問題なのは流れ出てしまった血だ。治癒の法術では傷を癒し、代謝組織の活性化を促すことはできても、増血作用はない。かなり失血しているこの状態では、下手に傷を完全に治して動けるようにしてしまうよりは、わざと傷を残して自由に動けないようにしておいたほうがいいだろう。

 そう判断して、青年は本当に初歩の治癒法術しか使用しなかった。しばらく、おとなしくしていてもらわなければ困る。そう、少なくともこの少年が死への憧憬を捨て去るまでは。

 魔法によって、外傷はすべて綺麗に消えた。いちばんの深手だった手首の傷も、おそらく身体の奥深くにあったであろう見えない傷も、癒されたはずだ。

 残るのは、体内の傷。そして、これだけは魔法でも治すことのできない、心の傷。

 身体の出血は止まっても、心の傷は血を流し続けている。そして無理矢理に生を継いだことにより、その傷はより深くなるのだろう。

 それでも、青年はこの少年を生かすと決めたのだ。ここで少年を拾ってしまうことにより、自分にもリスクが生まれると知りながら。

 

 青年に抱き上げられた血の気のない少年の顔が、力無くかくんと向きを変えた。

 

 

 

 

 そして漆黒の聖騎士レン・ムワヴィアは、叙任されたばかりの燐光の聖騎士ロテール・アルヌルーフ=リング・テムコ・ヴォルトを拾った。

 この事実を知る者は、漆黒の聖騎士と黒翠の聖騎士のみである。

 


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