人の集まるところには、規模の差異こそあれどもかならず街の暗部を担う場所が生まれる。支配者の統治が行き届かない土地であれば当然のようにそこは無法地帯となるのが世の摂理だが、それはアルバレアのように比較的まともな統治体制が敷かれている王国でも例外ではない。 否、だからこそそういった場所は自然と発生する。まるで人間が発散する暗い膿を集約するかのように、ひとつの場所に集めてしまってそこから目を背けるように、その場所を犠牲にすることによって他の場を清浄に保っているかのように、それは権力の中心地近くにあることが多かった。 権力と欲望は、切っても切れない。欲が権力を欲するのか、権力が欲を助長させるのかは、卵と鶏のようなどちらが先ともつかない関係だ。権力を保つために法を作るのも権力者であれば、欲を満たすためにその法を犯すのも権力者であることが多かった。 それを覆い隠すかのようにそこには様々な暗部が集められ、アルコールと艶を売る街となる。他の場所では非合法とされることでも、ここでは合法的に許される。視野の狭い理想家たちがなんと叫ぼうと、需要があるから供給は生まれるのだ。商人たちがそれに目をつけないはずはなく、いつの時代でも権力者たちがそれをみすみす見逃すはずがない。 だから、その街は成り立っている。法からいちばん遠い場所に立っているようで、きっといちばん法に守られているところ。
アルバレア紅地区。そこは法にも定められた、快楽を商品とすることを許可されている唯一の街である。
「……あら?」 彼女が首を傾げると、ウェーブのかかった長い髪が一房頬にかかった。 それを鬱陶しそうに手で払ったナリューシャは、上体をかがめるとその細い指をレンの胸元に伸ばす。白いシャツの隙間からかすかに覗いた黒い光が気になったらしい。 銀の鎖をシャツから引っぱり出し、姿を現したペンダントヘッドを見つめるナリューシャの瞳には、意外そうな色が浮かんでいる。それはあまり彼女が見せることのないもので、彼女の勝ち気な笑顔や一癖も二癖もある意味ありげな表情ばかりしか記憶に残っていないレンは、見慣れないものを見てしまったとでも言いたげに目をしばたたかせた。 彼らの関係は、ナリューシャがアルバレア紅地区──通称・花街で売られる商品となって間もない頃から続いている。この街で売られるものは星の数ほどあれども、ナリューシャが売るのはその中でも特に双璧と呼ばれるものだった。快楽と──情報である。 情報は、いつでも夜の街に集まる。金で快楽を買う者もいれば、情報で買う者もいる。閨での寝物語として、情報を落としていく者もいる。そして、娼婦たちの横のネットワークは強固なものだ。いつしかそうやってあちこちに落とされていく情報は統括され、商品として扱われるようになった。ひとつひとつでは大した価値を持たない情報も、まとまればひとつの力となる。整理されることによって、見えてくる真相もある。今や花街に張り巡らされた情報網は、各国の抱える諜報機関より詳しい裏事情を掴んでいることも少なくなかった。 そして今、そのネットワークの頂点に立っているのがナリューシャなのである。若くして歓楽街の裏を統べる立場を確立した彼女は、娼館の商品のひとつでありながらも、確固とした意志とプライドを持つ女性だった。 「……ねえ、これ、どうしたの?」 しばらくペンダントを指でなぞったりひっくり返したりしていたナリューシャは、目を丸くしてそう聞いてきた。 素直に驚愕をあらわしているその表情は、見慣れたものよりは幾分幼く見える。彼女の本当の年齢は何歳だっけ、などとまったく関係ないことにレンの意識が向きそうになった途端に銀の鎖を思いっきり引っ張られて、項のあたりの皮膚がひきつれた。 「……痛いよ、ナリューシャ」 「あ、ごめんなさい。で、これ、どうしたの? 自分で買ったの?」 まったく誠意のこもっていない謝罪の言葉をオマケにつけて、重ねてナリューシャがペンダントの出所を聞いてくる。何をそんなにこだわっているのかわからないまま、レンは正直に話すことにした。こういった状況に陥ってしまったら、はぐらかす方が面倒になる。 「あの子がくれたんだよ、この間」 「あの子って……あの伯爵様?」 そうしたら、ますますナリューシャの目が驚愕に見開かれた。 わざとやっているわけでもなさそうなので、ますます腑に落ちない。何が何だかわからないので問いただそうとしたら、先手を打たれるようにまたナリューシャが訊ねてきた。 「伯爵様が誰かからもらったのをあんたがとりあげた、ってワケじゃないわよね?」 「……あのね」 しかも、内容が物騒だ。 一体、自分はどういう人間だと思われているのだろうか。つい頭を抱えてしまいたくなったレンだったが、目一杯呆れを含んだ視線を投げるだけでとりあえずやめておくことにする。 さすがにその反応を見てナリューシャもやりすぎたと思ったのか、小さく肩をすくめて舌を出した。 「……冗談に決まってるでしょ」 そしてその場を宥めるためにだけ、思ってもいないことをさらりと言う。心にもないことを真顔でなんでもないことのように言える彼女の懐の深さにとりあえず感心しておいて、レンは小さくため息をついた。 そのため息を了承と取ったのか、ナリューシャがまた質問を飛ばしてくる。ペンダントを弄ぶ指先の動きとは裏腹にその表情はけっこう真剣で、レンは正直ますますなにがなんだかわからなくなっていた。 「じゃあ、あの伯爵様が、あんたのために買ってきたわけね? どこかで」 「そう。道具屋で見つけたんだって」 「ふぅん……」 しばらくそうやってペンダントを見つめて──というか睨み付けていたナリューシャは、ふと顔を上げると悪戯を思いついたような楽しそうな笑みを見せた。 ナリューシャが上体を屈めてまでレンの胸元に顔を寄せているので、顔を上げると至近距離で見つめあうことになる。そんなシチュエーションのわりに漂う雰囲気には色気もそっけもなくて、ここがどういった場所なのかお互い忘れそうになった。 「ねぇ、それにまつわる言い伝え……っていうのかしらね、ジンクスみたいなのって知ってる?」 「? 知らないよ? そんなのあるのかい?」 間近で見つめあったまま、会話は続く。鼻先がぶつかりそうなほどの空間しか開いていないというのに、ふたりともこれ以上接近しようという気配はまったくない。じつに不自然な体勢で、これまた状況にそぐわない会話をかわしている。 そんなある意味むなしい状態を作り上げていることにようやく思い当たったのか、ナリューシャが身体を起こした。そのまま外に張り出した窓辺に体重を預けて、くすりと笑う。 一方ようやくナリューシャから解放されたレンは、そのあまりたちのよろしくない笑みを横目で見てしまったらしい。もしかしてこのペンダントを彼女に見られたのは失敗だっただろうか、などという後ろ向きな思考がつい頭の隅をかすめた。 レンがそんな複雑な状態に陥っているのを知ってか知らずか、ナリューシャは楽しそうに言葉をつなぐ。 「たしか……2カ月くらい前だったかしらねぇ? 下の酒場に来てたお客が、それと同じ細工のアミュレットを持っててね。彼女に貰ったって、もうノロケまくってたんだけど……その時、教えてもらったのよ。そのアミュレット、欲しいものを手に入れられるっておまじないがかかってるらしいんだけど……自分と一生を過ごして欲しい人に渡すと、願いが叶うんですって」 「……は?」 なんだかどんどん思いがけないほうに話が進んでいて、あやうく聞き逃しそうになった。 そんなレンにはおかまいなしで、ナリューシャは間抜けたセリフを発したレンに言い聞かせるように詳しく説明してくれる。 「つまり、好きな人の心を手に入れられるってコトよね。たしかそのカップル、一週間前に無事結婚したはずよ。私たちの願いはもう叶ったから、他の人にこの幸せを分けてあげたい、とか言ってたし……もしかしてそれが、めぐりめぐってあんたのトコにきたんじゃないかしら?」 「・・・・・・・・」 ふと、これを貰ったときのロテールの表情がレンの脳裏に浮かぶ。最後まで原因がわからなかった、ほっとしたような不安そうな後ろめたそうなあの複雑な表情。 ……なんとなく、わかったような気がする。理解すると同時にほんの少しのくすぐったさと、それをはるかに上回る脱力感が襲ってきた。 そんなレンのなんとも言いがたい表情を確認してから。 「で、あんたはそれを、あの伯爵様に貰った、と。……ずいぶんとあからさまなプロポーズよね、ソレ」 まるで欲しかったおもちゃを手に入れた子どものような輝くばかりの笑顔を見せて、ナリューシャはそう言い切った。
固まったまま動かなくなってしまった黒髪の主の顔を、ナリューシャはひょいと横からのぞき込む。 そんなに、ダメージが大きかったのだろうか。いつものように簡単に笑い飛ばされると思っていただけに、この反応は少々意外だ。 目の前で、手をひらひらと振ってみる。頬をぎゅーっと引っ張ってみる。しばらく顔で遊んでいたらようやく思考のブラックホールから脱出してこれたのか、レンがナリューシャを呆れた表情で見上げた。 「……なにしてるのかな?」 「だって、うんともすんとも言わなくなっちゃったんですもの。心配になるじゃない」 「考えごとくらいさせてほしいな……」 まだ頬を引っ張り続けるナリューシャの手をさりげなく払いつつ、言うだけ無駄かとでも言いたげにレンはため息をつく。 それからロッキングチェアのアームに肘を置いて頬杖をつき、どうでもよさそうに口を開いた。 「……ロテールのことだから、きっとそこまで知らなかったんじゃないのかな?」 比較的一般論に近しいことを言ってはみても、本人ですらそんなことあるわけがないと思っているのだから、まったく説得力がない。 言い出した本人も信じていないような根拠の薄い主張にナリューシャが同意するわけもなく、あっさりと鼻で笑われた。 「な〜に言ってんのよ。そんないわくつき……って、これじゃなんか縁起の悪いモノみたいね、そんな恋する女の子が飛びついて買いそうな逸話、道具屋の主人が黙ってるもんですか。あんたも、ヘンなとこ甘いわね」 「……悪かったね」 「あらめずらしい、素直じゃない。な〜に、そんなに驚いたわけ?」 はぐらかすような反論を予測していたのにまるで返ってこなかったので、ナリューシャは目をぱちくりとさせた。思った以上の効果に、どうやら彼女自身も相当面食らっているようだった。 とはいえ別にナリューシャがけしかけてやらせたことでもないし、彼女はそのペンダントを他人に渡す意味を教えただけである。あたしはなにも悪くないわよと心の中で言い訳して、ナリューシャは頬杖をついたまま視線を床に落とすレンの顔を上げさせた。 無理矢理正面を向かされたレンは、見ればわかるだろうと言う気力も湧いてこなくて今日何度目かのため息をつく。 「そりゃあねぇ、そんな深遠な意味があるものとは思ってなかったからねぇ……」 レンがこのままロテールの前から姿を消したほうがいいんじゃないかと思うのは、こんな時だ。 離れればお互いが傷つくのはわかっている。別離に慣れている自分はともかく、ロテールは今ここでレンが裏切ったら、もう二度と誰にも心を開かないかもしれない。そうは思っても、この手を離したほうがロテールのためになるのは事実だった。 彼を表の世界に置いておきたいという気持ちと、それに相反する気持ちがレンの中にある。どちらも自分の本音である以上、ごまかすこともどうすることもできなかった。 「いいじゃない、せっかく相手がその気なんだから、遠慮なんかしないでおけば?」 詳細はわからなくてもレンの葛藤している内容は薄々察しがつくのか、ナリューシャはわざと明るくそんなことを言う。 そのままレンの顔を引き寄せ、額に軽く唇を押し当てた。慰めるような宥めるようなその優しさに、レンは苦い笑みをもらす。それでもその優しさに甘えたくなったのか、少しだけ弱音を吐いてみることにしたようだ。 自分の頭を支える手に頬を擦り寄せると、ナリューシャの柔らかい腕に抱き込まれた。そのまま彼女に体重を預け、そっと目を閉じる。 ナリューシャが、黒いさらさらとした髪をゆっくりと梳いた。 「そう単純にいくようだったら、今ここで俺がこんなに浮かない顔してると思うかい?」 「思うわけないでしょ。でも、せっかく『遊んでください』って言わんばかりにネタが転がってきたんですもの。活用しなきゃソンよ」 「はいはい……なんだったらこれ、君にあげようか? いろんな意味で……たぶん、俺とロテールには必要ないものだから」 「冗談じゃないわよ、あたし、まだあの伯爵様に恨まれたくないもの。全部片づいた時には、貰ってあげてもいいけどね。それに……」 急に弱々しくなったと思ったら戸惑うようにかき消えたナリューシャの声に、レンは目を開ける。何かあったのかと身を離そうとしたら、ナリューシャの腕がそっと引き留めた。 彼女の指が髪の中に差し込まれる。子どもをあやすように髪と戯れるだけで、ナリューシャはもう言葉を続けようとはしない。 結局腕の中から解放してもらえないまま、レンは先を促すことしかできなかった。 「それに?」 「……ううん、なんでもない。気にしないで」 その声は、もういつものナリューシャのものだった。 |