□  夏の雨音  □

 

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「気にいられましたか?」

 後ろから声をかけられて、ロテールは派手に肩を震わせた。

 心臓が止まりそうなほど、驚いたのだ。

 なぜそんなに驚いたのか、そもそも店の主人が背後に近づいてきて声をかけるまでその気配にすら気づけなかったほど、それに意識を奪われていたのか。

 店の主人は主人で別の脅かすつもりはまったくなかったらしく、ロテールの反応の方に戸惑い、驚いているようだった。

 目をしばたたかせる主人に対して、取り繕うように笑みを浮かべる。少々頬のあたりが強張っているようだが、この際大目に見てもらうことにした。

「あ、ああ……色がな」

 そっと腕を伸ばして棚の奥にあったアミュレットを手に取ったロテールの手つきを見て、店の主人は表情を営業用の笑顔に変えた。

 それは黒曜石の台座にアメジストがはめ込まれた、小振りなアミュレットである。かなり小さめなので、ペンダントヘッドとしても使えそうなものだった。よく見ると、上の部分に革紐やチェーンが通せるような銀の金具が取り付けられている。

 さほど奇抜なものではないが、どこか目を惹くところがあった。黒い台座に淡い紫の石を配することによって生まれる派手な印象を、控えめで落ちついたデザインが抑えている。

 もっともロテールにとって、それなりに芸術的価値のあるデザインや意匠はどうでもよかった。どうせ、色しか見えていないのだ。

「これにはどんな効果があるんだ?」

 本音を言えば効果もどうでもよかったのだが、一応聞いてみる。ところが意味ありげな笑顔を見せた主人から返ってきた台詞は、ある意味とても意外なものだった。

「それは、欲しいものが手に入るお守りだそうですよ……本当かどうかは知りませんがね」

「欲しいものが手に入る?」

 それはまた大きく出たものだと、ロテールは手の中のアミュレットを見やる。とても、そんな大層な効果があるものには見えない。

 確かに魔法のアミュレットらしく微弱な魔術の気配はするが、願いが叶うというふれ込みにしてはささやかすぎる気配だった。

 そんなロテールの心中を知ってか知らずか、店の主人は言葉を続ける。その内容は先刻のものよりも更に意外で、しかもロテールにとっては平然と聞き流すこともできないことだった。

「ええ。それに、紫水晶には愛や真実、希望といった意味もありますからね。それをプレゼントした相手の心を自分のものにできる……とか、そんなこと言ってたなあ」

 

 

 思い浮かぶのは、黒と紫の瞳。

 優しく穏やかな笑顔。しかし、決して感情の奥底を見せることはない笑顔。

 この手につかまえたはずだった。呆れられるほど何度も聞いたし、答えも何度ももらった。唇や肌を重ねた回数も、一度や二度ではない。何度も抱きしめたし、抱きしめられた。だけど、自信なんてまったくない。

 いつ、ふらりと自分の側からいなくなってしまってもおかしくない。実際、ロテールは相手のことなど何も知らないのだ。名前や肌の温かさ、優しさ、そしてそれと紙一重の冷たさは知っている。確かにその人を好きになるために必要なことは知っていた。だけど、それ以外のことは?

 ロテールは、相手のことを何も知らない。何度答えをもらっても、不安は消えない。相手に好かれているという自信が、持てない。

 だからだろうか。こんな気持ちを知らない頃であれば笑い飛ばしていたであろうその話が、こんなにも気になるのは。

「親父さんが仕入れてきたものじゃないのか?」

「ああ、違いますよ。幸せそうな新婚さんが、一昨日売りにきたんです。私たちにはもう必要ないから、ってね」

「へぇ……欲しいもの、ねぇ……」

 欲しいものなんて、ひとつだ。自分が持っているものすべてと引き替えにと言われれば、ためらいもなくすべてを捨てることもできるだろう。相手を抱きしめるための身体と命さえあれば、他はなにもいらない。

 相手が女であれば、話はもっと簡単だっただろう。相手がごく普通の人であれば、こんなに不安に駆られることもなかっただろう。相手が男で、しかもかなり複雑な事情を背負っていると察せられるからこそ悩みも深くなる。置いていかれるかもしれない、という不安も募る。

 だけど。もし、証があれば? 今すぐは無理でも、将来必ず彼が自分だけのものになってくれる、ということが確信できれば?

 ロテールは、想い人の瞳と同じ色をしたアミュレットを持つ手に力をこめた。

 そんな大層な魔力を持つ品とは思えない。だけど、もし本当に効果があるのだったら。

 ……少なくとも自分の心を落ちつけ、なだめる役には立つのではないだろうか。

「……面白そうだな、もらっていくよ。いくらだ?」

 努めて平静さを装って出した声は、ロテールが思った以上になんでもなく聞こえたようだった。ちょっと意外そうな表情を見せたものの、店の主人は決して安くもないが購買意欲を削ぐほどでもない価格を提示する。

 サービスだと言って細い銀のチェーンをつけてくれた主人はロテールから金貨を受け取ると、からかい半分にひやかしの台詞を口にした。

「それにしても、ロテール様がねぇ……それをさしあげたい方でもいらっしゃるんですか?」

「いるわけないだろう? 色が気に入ったんだよ。ほらほら、俺にかまけてたら客が逃げるぞ」

「ロテール様ですもんねえ、そうだと思いましたよ。毎度ありがとうございます、ごゆっくりどうぞ」

 もっとも、本当に「ロテールに本気の相手がいる」なんてことは、露ほども思っていなかったようだ。顎に手を当てて何度か頷くとそれ以上突っ込んでくることもなく、主人はきちんと頭を下げて奥へと戻っていく。

 日頃の行いがモノを言ったのか、まったく追求されずに納得されてしまったようだった。

 ロテール自身にしてみればこのアミュレットと同じ色彩の瞳を持つ人物のことが当然頭にあったわけで、思い込もうとしている内容をそのまま口に出していただけだから、どこから聞いても口から出まかせに聞こえる。

 どうせただのそれらしい作り話と思おうとしても、どうしても「もしそれが本当なら」という意識が頭の隅をかすめた。思い切ろうとすること自体が、無駄な努力なのかもしれなかった。

 ふと光を感じて、雨に濡れた窓ガラス越しに表を見る。あれほど激しかった雨は、すっかり上がっているようだった。

 木の扉を押し開けて、表に出る。庇から落ちる雨の滴が夕陽に照らされ、きらきらと輝いていた。

 もう一度、手にしたアミュレットを見つめる。柄にもなく、まるで夢見る女の子みたいな発想をしかけている自分自身にうんざりして、ロテールは自己嫌悪の滲んだ苦い笑みを浮かべた。

 そんな彼の表情を見て、なんだか珍しいものを見つけたとでも言いたげに、通りすがりの街の人々が振り返った。

 


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