翌日、空は昨日の雪が嘘のように晴れ上がっていた。だが騎卿宮へ向かうレオンの心は重く沈んでいる。 (一体、どんな顔してカインに謝ればいいんだろう……?) 騎卿宮に着く。イヤなことはさっさと済ませてしまうに限ると思い、レオンは自分の執務室へ入る前に、隣にあるカインの部屋へと向かった。 トントンッ。 「カイン……いるか?」 「……ああ」 カインの部屋はいつも薄暗い。外光が極力入らないよう、一日中カーテンを閉めているせいだ。 『あれは、陽の光で実験に使う材料が変質するのを防ぐための配慮なのですよ』 とマハトは言う。だがレオンにしてみれば、そんな薬品を騎卿宮に保存しておくこと自体、何かが間違っているように思える。 「……おまえがこの部屋に来るなんて珍しいな」 薄暗い部屋の中で、そこだけぼうっと浮かび上がるように輝く銀色の長い髪が見えた。この部屋の主、カインその人だ。 「何だと!」 拳を突き出しかけて、レオンはふっと我に返った。 (そんなことしている場合じゃない……) 「……いや、昨日……」 「ああ、おまえの妹が訳の分からないものを持ってきたことか?」 「おまえ……言うに事欠いてハンナのことを……」 レオンは完全に頭へ血が昇ってしまった。だが、その瞬間脳裏に浮かんだハンナの顔が、レオンを現実へと引き戻した。 『もし私に対して悪いことをしたと思うなら、明日、カイン様に謝っておいてくれない?』 「カイン……俺も……ハンナも……おまえが胡桃嫌いだなんて知らなかったんだ……。だから……許してくれないか?」 絞り出すように言葉を吐き出す。カインの蒼い瞳が軽く見開かれた。 「頼……む……」 レオンは無意識のうちに土下座していた。 「……よせ……」 レオンに背を向け、カインがほとんど聞き取れないような低い声でつぶやく。 「じゃあ、許してくれるんだな!」 満面に笑みを浮かべて、レオンは立ち上がった。 「ああ……」 「よかった! これでハンナに顔向けができる! ありがとうカイン!」 嬉しさのあまり、レオンは今にもカインの手をとって踊り出しそうだった。 「……」 「ところで、カイン?」 「何だ。まだあるのか?」 「おまえ……ハンナのこと、本当はどう思っているんだ?」 レオンの言動は先程までとは違い、自信に満ちあふれていた。ハンナの兄として、この質問をするのは当然といわんばかりの態度だ。 「……何?」 「おまえだって気付いただろう? 降臨祭にクッキーを渡そうとしたんだ。あいつ……ハンナは、おまえのことが、本当に好きなんだよ!」 カインは心底驚いた。 レオンとカイン……2人は確かに対称的な個性を備えている。だが1つだけ大きな共通点があった。 世事に疎い……ということだ。 レオンが知らなかったのと同様、カインも降臨祭の意味など知らなかった。だからハンナが胡桃入りのクッキーをくれたのはレオンの仕返しかと、本気で思っていたのだ。 (そうか……そういう意味だったのか……) その瞬間、カインの頭にさまざまな想いが浮かんだ。 目の前にいる、傲慢そうに『俺の妹のことをどう思っているのか?』と問いつめる男に対して、どういう態度をとればいいのか……。 そして辿り着いた結論は……。 「……俺が欲しいのは……」 唇をレオンの耳元に近づける。 「……おまえだけだ……レオン」
「な……なんだって?」 とっさのことで、カインの発した言葉の意味がよくわからない。というよりもむしろ、レオンの頭が意味を理解することを拒否していたのかもしれない。目の前にカインの顔がある。その表情は普段と寸分たがわず、いたって冷静だ。ただ……その蒼い瞳だけが妖しい光を放っている。背筋がぞくぞくっとして、レオンは無意識に一歩後ろへ下った。 「……俺……が……欲しい……だと?」 頭の中に、カインの言葉が反響する。 「……」 問いには無言で応じ、カインは唇を重ねてきた。
「……よせ!」 レオンはカインを突き飛ばし、部屋から飛び出した。残されたカインの蒼い瞳に、哀しみと呼んでもいいようなものが浮かんでいたことには、もちろん気づきもしなかった。
レオンは騎卿宮を駆け抜け、自宅へ向かった。勝手に今日の執務を放り出したことになるが、それでもかまわないと思った。 (こんな精神状態で執務なんてできるか!) 途中マハトとすれ違った。声をかけられたようだが、あえて無視した。
「お兄ちゃんどうしたの? こんなに早く帰ってきて。もしかして急な遠征?」 自宅のドアを開けた途端、洗濯物を抱えていたハンナが声をかけてきた。 (……あっ……) 今レオンが最も会いたくない人間の一人、それがハンナだった。 「いやちょっと……気分が悪くて……」 「本当だ、顔が真っ青だよ。横になったほうがいいかもね」 「そうさせてもらうよ……」 兄を優しく気遣いつつも、ハンナの瞳には物問いたげな表情が浮かんでいた。 「ああ……。カインは……俺が事情を話したら、ちゃんとわかってくれたよ」 最後のほうの言葉がかすれがちだったことに、はたしてハンナは気が付いただろうか? 「本当! ありがとう、お兄ちゃん!」
自室のベッドに身を投げだした。高ぶった精神を何とかしずめようとして、混乱したままの頭でさっき起こったことを考える。 (どういう意味だあれは!) 自分は紛れもなく男である。なのにカインは、女である妹のハンナではなく、この自分が欲しいと言う。それが友情などという生やさしいレベルの感情ではないことは、その後の行為でも明らかだ。 (まさか、は、初めてのキスの相手が男だとはな……) 羞恥で顔が真っ赤になる。誰が見ているわけでもないのに、枕へ突っ伏した。 (男同士でもそういうことがあるというのは、話くらいには聞いてはいたけれども……) まさか自分の身に起こるとは、想像だにしていなかった。しかも相手は同じ聖騎士団長で、その中でも特に相性が悪いと思っていたカインとは……。 (くそう! ハンナに……ハンナにどう顔向けしろというんだ!)
「うわあっ!」 夜半過ぎ、レオンは自分の叫び声で目を覚ました。全身にじっとりと寝汗をかいている。 (夢……か……) 無意識のうちに指で唇に触れた。 (夢にしては……何て生々しい……。まだ奴の……唇の……冷たい感触が残っているようだ……) 「お兄ちゃん、どうしたの?」 扉の向こうから、ハンナが声をかけてくる。どうやらさっきの叫び声で、起こしてしまったようだ。だが今のレオンには、ハンナと顔を合わせる勇気はない。 「ごめんハンナ……。ちょっと……夢を……見たんだ……」 「本当? お水でも持ってこようか?」 「いい……。起こして悪かったな……。おやすみ……」 「じゃあ、おやすみなさい……」
その後レオンは、毎晩のように同じ夢にうなされることとなった。
|