球体の奏でる歌 |
Parents
「だから……っ! ……っ、どうしてあんたはそうエリーに甘いんだっっ!」 「息が切れてるよ。もう若くないんだから……」 「ほっとけ!」 「言っておくけど、ここは運動場でもなんでもないんだからね。親子で全力疾走しないでほしいな」 「あんたのせいだろーが、半分は……」 どうせ何を言っても無駄だとわかっているのについ口にしてしまうのは、もう習慣みたいなものだ。 倒れ込むようにソファに身を沈めたロテールは楽しそうに笑い続けるレンを睨み付けると、それでも彼の手から水の入ったグラスを受け取った。 そのまま、一気に飲み干す。急激な運動のせいで水分を欲していた喉を潤してから、もう一度ロテールはレンの顔を見つめた……というか、ねめつけた。 いつまでも笑っているレンとは正反対に、娘にからかわれたあげくに逃げ出され、塔内を全力で走り回るハメに陥ったロテールの機嫌はかなり悪い。 そんなことはとっくにわかっているはずなのに、レンがロテールをなだめようとする素振りすら見せないものだから、彼の機嫌はますます下降の一途をたどることになる。 「その放任主義、なんとかしろよ」 それでも結局口から出たのは、そんな生やさしいセリフだけだったりするから情けない。ロテール自身もそう思ってしまったのか、ますますしかめっ面になっていく。そのまま、ぷいと横を向いてしまった。 完全に拗ねてしまったロテールの心中をわかっているのかいないのか、そんな様子を呑気に眺めていたレンは不思議そうな表情を作ってみせる。 「とりあえず、まっとうに育ってると思うんだけどなあ」 「……! あのなあっっ!」 そんなセリフを聞いて、ロテールが黙っていられるわけがない。 拗ねて自己主張をしていたのも忘れたようにソファから立ち上がり、まだ座り込んでいるレンに近寄って胸ぐらを掴み上げる。厚めだが手触りは良い生地で作られた黒い制服に、不自然な皺がよった。 ちらりとその皺に視線を投げてから、レンはロテールが気づかない程度に小さくため息をつく。もしこんな状態で制服の皺を気にしているなんてことがバレたら、またしばらくめんどうなことになりそうだからだ。 「ど・こ・が・だ! まっとうに育った13歳が、30過ぎの男にひっかかるか!?」 とりあえず、ため息には気づかなかったらしい。 ひとまず制服の皺は思考の向こう側に置いてから、レンは胸ぐらを掴まれたまま軽い笑みを見せると微妙にロテールの言葉に訂正を加えた。 ロテールがよけい激号することは、当然承知のうえで、だ。 「引っかかったというか、見初めたのは8歳だったって聞いたけど……」 「よけいに悪い!」 「まあ、べつにいいじゃないか。なにか問題が起こったわけでもないんだし」 「問題が起こったらマズイから言ってるんだっっっ!」 「起こるかどうかもわからないことを心配してても、しょうがないと思うんだけどなあ」 「…………も、いい……」 さすがに、いくら言ってもまったく効果がないことに気づいたのか。 心底疲れたようにそうぼそりと呟くと、ロテールはゆっくりと掴んでいたままの制服から手を離す。 そのまま両腕を持ち上げてレンの肩に手の置き場を決めると、脱力したように全体重をかけてきた。 黒い制服に包まれた足の上に片膝を乗り上げ、さりげなくレンの両足の間に自分の身体を滑り込ませる。ロテールが何をしたいのか把握しきれなかったレンが目をぱちくりとさせたときには、すでに上から覆い被さられるように抱き込まれた後だった。 「ロテール?」 「……わかってるんだ。俺が口うるさいだけだってのは」 「……へぇ?」 ロテールの顔はレンの肩に押しつけられているので、表情は見えない。 だがその口調に悄然としたものを感じて、レンはわずかに表情をあらためた。 そんな微妙な変化には、ロテールは気づかない。体温を感じとりたいのか頬で肩に擦り寄って、そのまま言葉をつないでいく。 「エリーは俺とは違う。たぶんあの頃の俺よりよっぽどしっかりしてるし、いざとなったらどんな騒ぎを起こしてでも自力で帰ってこられると思う。それに……あいつが妙な輩に狙われることは、ないしな」 最後にはほとんど呟くような小声になっていたが、それでもレンがそれを聞き逃すことはなかった。 そっと腕を上げて、優しくロテールの背中を撫でる。手のひらの暖かさを感じてか、少しだけしがみつく力が強くなった。 その反応に、レンが小さく笑みをこぼす。 「まあね。あの子のことを知っている人なんて、ほとんどいない。名家の跡取り、というわけでもない。そういう意味では、きわめて安心できる境遇だよね。しかも、あの子が唯一個人的に交流を持ってる相手は君の昔の同僚だし」 「……その、同僚ってとこが気にくわないんだがな……」 「ふふ、結局はそこだろう? 年齢云々なんて言ってるけど、結局は君のことをよく知っている相手とエリーの仲がいいのが嬉しくないだけじゃないか。わがままだねぇ」 からかうように少し意地悪くそう口にすると、あまり効果的な反論が思いつけなったのかすぐには反応が返ってこない。また拗ねたかなと思ったレンが首をめぐらしてロテールの顔をのぞき込もうとした途端、首筋に甘い痛みが走った。 結局、言葉で反撃に出るのは諦めたらしい。肩から移動してレンの首筋に顔を埋めたロテールが、そのままそこにかみついたのだ。 「……ッ、いきなり噛むかい?」 「わがままで悪かったな。大体俺の同僚ってことは、もういいトシしたおやじじゃないか。20も年下の幼女に手を出す変態相手に、どこの父親が諸手を上げて賛成するって言うんだよ」 耳元で囁くにはあまり適していないセリフではあるが、吐息が耳にかかることには変わりない。次いで先刻噛まれた場所をそっと舐められて、くすぐったそうに笑みを掃いていたレンはぴくりと身体を震わせた。 ロテールにとって、レンは永遠の謎だ。彼の心の奥に潜んでいるはずのことや考えていること、そして彼の価値観のかけらすら謎に満ちている。一生かけても本当の意味で理解できることはないんじゃないか、と近頃では思っているほどだ。 だが今腕の中に閉じこめている身体のことなら、ロテールは知り尽くしている。もしかしたらレン本人でさえ知らないことも、知っているかもしれない。 だから口で勝てないということがわかっている以上、ロテールにはこういう手段しか残されていなかった。そしてかなりと言っていいほどロテールに対して甘いレンは、こういう状況に陥ってしまうとまず抵抗しようとしない。たとえ話が逸らされるということがわかっていても、仕方なく笑いながらも受け入れてしまうのだ。 顔を上げて、レンの黒い瞳を見つめる。やれやれとでも言いたげな表情を覗かせながらも、その瞳はゆっくりと閉じられた。 そっと唇を合わせ啄むように触れてから舌先で促すように唇を舐めると、静かに隙間が開かれる。そのまま舌を差し入れつつレンの制服の襟元から手を滑り込ませると、縋るようにロテールの首に腕が回された。 ある意味レンの甘さにつけ込んでいるということは、ロテール自身がいちばんよくわかっている。そしてわかっていてもやめられない、そんな自分にいちばん嫌気がさしているのも、たぶんロテールだった。
「ロテールの言い分もわからないでもないけどね。でもエリーに年齢差って、あんまり関係ないと思うよ」 乱れてしまった黒髪をかきあげながら言ったレンのその一言は、かなり唐突だった。 ついさっき自分の手ではぎ取った黒い制服の上着をレンの方に放りながら、ロテールは首を傾げる。今のセリフが一体何に通じているのか、まったくわからなかったのだ。 真剣に悩んでいるロテールの姿を見て、レンはくすりと笑う。どうせ覚えていないとは思っていたが、本当に忘れているところがロテールらしい。 「20歳年上のおやじ」 「……あ、あー、ソレか。って、なんで関係ないって言い切れる?」 ようやく思い出したのか、ロテールの顔に納得できたらしい表情が浮かぶ。もっともそれはごく一瞬のことで、すぐに怪訝そうな表情に取ってかわられた。 ロテールにしてみればエリーには関係ないと言い切れる理由も想像できなかったし、それにわざわざレンがこの話題に立ち戻るとも思っていなかったのだ。 疑問は二重になる。父親独特の過剰な心配性から出てきた単なる愚痴に、レンがわざわざ慰めや反論を返してくるとは思えない。先ほどのかなり強引な誘いに文句や嫌味ひとつ言わずに乗ってきてくれたのも、そのかわりにこの話はおしまい、という合図だと思っていたのだ。 それなのに、レンが自分からその話題を持ち出してきた。ということは、おそらく冗談まじりやからかい半分のどうでもいい話ではない。それなりに重要な、聞き逃すわけにはいかない話だ。 ロテールの目に浮かぶ真摯な光に気づいたのか、レンが微かになだめるような笑みを浮かべる。それでもその口から紡ぎ出された言葉は、そんなレンの心遣いをまったく無視してロテールに真剣な表情をさせた。 「簡単だよ。あの子は、俺の血を引いている。いつ成長が止まってもおかしくない」 |