球体の奏でる歌 |
Round the World
口にした内容とは裏腹にレンの表情はまったくの普通どおりで、ロテールはその言葉の意味よりも何よりも、それにいちばん神経がひきつれるような痛みを覚えた。 「実際にどうなるかは、俺にもよくわからないけどね。さすがに、子供まで作ったのは初めてだからなあ」 だからこの塔に仕事上の部下以外の人間か住まうなんてことも長い人生で初めてのことだ、となんでもないことのように笑って言う。 レンが何気ない素振りで言葉をつなぐたび、ロテールの中に痛みが走る。それが何に起因しているのかは、きっとロテールにもわかっていない。取り残され続けたことへの同情なのか、自分の知らないレンの時間を知っている者への嫉妬なのか、それすらも決められない。 幾百年ともしれない長い時間、繰り返される朝と夜をひとりきりで眺めてきたレンの孤独なんて、きっと一生理解できない。その長い年月の間に育まれたはずのいくつもの交流なんて、意識を向けるだけ馬鹿げている。 わかっているのにそれでも心を苛もうとする痛みを押さえつけたくて、ロテールはシャツを羽織っただけのレンに、背中から抱きついた。 腕の中の身体がどこにも行ってしまわないように、ぎゅっと力を込めて抱きしめる。抱きつくというよりはしがみつくようなその強さに、レンは少しだけ戸惑ったような表情を浮かべた。 「ロテール?」 「……そんなこと、関係ない。たとえあいつがそれこそ数百年引き続ける運命を背負っていても、もし俺よりも先に命を落とすような短い宿命しか持っていなくても、エリーは俺の娘以外の何者でもない」 だから、心配もするし余計なことも言う。そう続けたロテールの方へ首をめぐらせて、レンがどこか楽しそうに笑った。 ……でもロテールが本当に言いたいことは、こんなことじゃない。これも確かにロテールの心の中にある真実ではあったけど、今はエリシエルのことよりもレン自身のことが気になっている。 そのまま他に意識を向けてしまえばここで話は終わったはずなのに、それでもロテールはつい疑問を口にしてしまった。 「……あんたは今までずっとひとりだったのか? エリーみたいに、一緒に時を過ごしてくれそうな人は……見つけられなかったのか?」 自分が、レンについてくるまで。 レンと共にきてからというもの、自分の成長がとまっていることはロテールも知っている。年齢的にもう成長もなにもないはずではあるが、やってくるはずの体力の衰えや老化とも縁がない。爪も髪も、ずいぶんと長いこと切っていない。身体を形づくる細胞の時間だけが、まるでぴたりと止まってしまったかのようだった。 それがレンに受け入れられた証であることくらい、わかる。おそらくこれも失われた魔法の効果のひとつなのだろう。だがこんなに簡単に行えるはずの魔法を、今まで誰にも施すことがなかったのだろうか? 誰か他の人がレンの側にいたのなら、それはそれでいい。レンの孤独を埋める誰かがいたのなら、それはロテールにとっての喜びとなる。……本当に? 誰もレンの側にいなかったのなら、それほど嬉しいことはない。たとえ自分の知らない過去であろうとも、レンの心の中に誰かがいたというのは許せない。……本当に? 相反する想いが、心の中で渦を巻く。考えるだけばかばかしいと思い切ったはずなのに、なぜまたこんなことを考えているのか。なぜ、尋ねるはずもなかったことを口にしているのか。 そんなロテールの心中を察したのか、レンが優しげな笑みを見せた。 「ひとりだったよ。仕事仲間はいたけどね」 ぽんと投げ出された答えは、一見あっけないもののように聞こえた。 心を通わせた相手はいなかった、となんでもないことのように呟く横顔は、ロテールが無意識のうちに安堵してしまうほど穏やかなものだった。 だが。 「確かに、俺は今までひとりで生きてきた。だけど、今は違う。そうだろう? それに……」 ふ、とレンの表情が変わる。 いつも見せている優しく穏やかな笑顔でもなければ、ロテールをからかうときの楽しげな笑みでもない。仕事中にしか見せない怜悧な無表情でもなければ、娘であるエリシエルに見せる慈愛に満ちた顔でもない。 何もかもを諦めたような、遠くを見つめるような頼りない眼差し。見えないもの、手の届かないものを追いかけていきたいのにそれも叶わない、すべてを諦めあるがままを受け入れようとする寂しい笑顔。 「俺がいつまでこの世界に存在していられるのかなんて、俺自身も……たぶん、神々だって知らないことなんだよ」 そしてその笑顔と共にさらされたのは、もしかしたら彼が抱えている唯一の弱みとでもいうべきもの。 まったく先の見えない未来。いつ途切れるとも、いつまで続くともしれない時間の道。自分の意志で生も死も選べないことへの葛藤。不安。 今まで思い至らなかったわけではない。ただ長すぎる時間が、忘れるということ、心の奥にしまい込むという手段を教えてくれただけだ。 それは、考えても仕方のないこと。レン自身ではどうすることもできないこと。口に出してしまえば単なる泣き言になってしまうとわかっていたから、今まで呟くことすらしなかった。まさかこんなところでぽろりと言ってしまうことになるなんて、きっとレンがいちばん意外に思っている。 そして見慣れない表情に意識を奪われていたロテールは、あまり聞きたくなかったそのセリフをしっかり全部聞いてしまった。 咄嗟にはどうしていいのかわからなくて、どうすればそんな表情をしないでいてくれるのかがわからなくて、ただ抱きしめる腕の力を強くする。先に逝くことは考えたことがあってもおいて逝かれることなど考えたこともなかったから、レンがいなくなった後のことを考えるという恐怖を伴うその一瞬、少しだけ腕が震えた。 「……でも、今この時にレンがここにいるという事実だけで、俺はあんたにこんな歪んだ時間を押しつけたヤツにも感謝できる」 「そりゃまあ……確かにそうだけどね」 レンの呆れたような声が降ってくる。実際、呆れているのだろう。価値観や常識をすべて覆すような事実を目の当たりにしても、自分に対する執着だけは決して手放そうとしないロテールに。 「俺とレンの時間が重なっている間だけでいい。その間だけ、あんたが俺だけのものでいてくれればいいんだ。他には別に……何も望んでない」 抱きついていた身体を腕の中で反転させ、レンの顔を見つめる。感情がこもっているのかいないのかわからない、黒い瞳。何か考え込むかのようにその瞳を揺らしたレンは、ゆっくりと瞼を伏せてそのまま俯いた。 しばらく、そのまま動かない。何かまずいことを言っただろうかと焦るロテールの心を察したのかふいに顔を上げたレンは、そのままロテールと視線を絡ませた。 落ちついた瞳。しかし、笑ってはいない。感情の浮かばない冷たい瞳でもない。あまり見せることのない、真剣な瞳。 肉付きの薄い唇が、そっと開かれる。まるで見とれるかのようにレンの顔のパーツひとつひとつを見つめていたロテールの耳に、静かな声が滑り込んできた。 「もし、永遠の時間を生きることになっても?」 「あんたと一緒なら」 「……もし、明日その時間が終わることになっても?」 「俺の時間も一緒に終わるまでだ。エリーには悪いけどな」 ためらいもせずに言い切る。その気持ちに、偽りはない。レンがいなくなった世界には、未練なんて残らない。 エリシエルは大切な娘。でも彼女でさえ、ロテールにとってレン以上の存在にはなれないのだ。 家のために、ずっと個を捨ててきた。すべてがどうでもよくなった時もあった。潤っているようで、どこまでも乾いた人生。 息をつける場所をくれたのはレンだけだった。だから今は腕の中にいる彼が消えたとき、ロテールの世界も終わる。 「ひどい父親だね」 本当に酷いとは思っていないような口振りで、そうレンが呟いた。 ロテールにも、親としてとんでもないことを言っているという自覚はある。だが、それを言わせたのはレンだった。 レンが本当はどんな答えを求めていたのかはわからない。それでも、先ほどの真剣さが薄らいだのは感じとれる。レンを構成する要素が少しずつ甦ってくるのを感じて、ロテールはいつものように少し拗ねた声を出した。 「あんたほどじゃない」 笑ってくれることを信じて。笑顔を見せてくれることを夢見て。 絡んだ視線が、ふと和らぐ。黒い瞳にゆっくりと穏やかな光が浮かぶ。それから。 「ふふ……そう、かもね」 レンはふわり、と。 花が開くように、蝶が羽化するように……きれいに微笑んだ。
そして時間に忘れられた世界は美しい球体を形づくり、微笑に捕らわれたひとりの囚人を閉じこめる。 |
E N D |
あんたの『一生』なんて、たぶん絶対に信じない。 過去なんて、詮索しだしたらキリがない。 わかっていても気になるのは、嘘でもいいから約束の言葉が欲しくなるのは、なぜだろう。
でもきっと、あんたは本当のことも言わないけど、嘘もついてくれないんだ。 |
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