紅い時間 … ←back □ next→


 

 

 

 

 −the 3rd DAY−Obverse

 

 

 カリカリとなにかを引っかく音に、ロテールは目を覚ました。

 しばらく横になったままその音に耳を傾けていると、次に「にゃあ」という小さな鳴き声が聞こえてくる。猫かと納得して、もう一度目を閉じた。

 だが、おそらく爪で扉をひっかいているらしい音は止まらない。一度気にとめてしまうとどうにも意識の外に追い出せなくて、ロテールはもう一度目を開けると扉を開けるために起き出した。

 もう起きて歩き回っても大丈夫なくらいには、身体も回復している。帰ろうと思えばいつでも帰ることができる状況にありながらも、ロテールはまだこの何処ともしれない場所から離れようとは思わなかった。

 居心地がいいせいかもしれない。ここにいると、考えたくないことを考えずにすむ。

 もっとも、このままでいいわけがないこともわかっている。数日のうちに、ここを離れなければならないだろう。たとえ、人との触れあいに恐怖を覚えたままであろうとも。

 ふとそんなことが頭を隅をよぎって、ロテールは軽く肩をすくめた。……今までと、一体何が変わるというのだろう。精神的だけでなく、肉体的にも他人と触れあうことができなくなった。……ただそれだけだ。

 もしかしたら、いっそ都合がいいのかもしれない。自分でも気づかないうちに後ろ向きになっていく思考をせき止めたのは、扉を押し開けたとたんに隙間から飛び込んできた仔猫だった。

「……にゃあ」

 飛び込んできたはいいものの、次に何をすればいいのかわからない。行儀良く床に座り込んでそんな表情を見せた仔猫は、すぐそばに見えたものに興味を向けたようだ。大きな黒い目をぱちぱちと瞬かせると、ためらいもせずにロテールの足へとすり寄ってきた。

 人に慣れているのか、それとも警戒するということすら知らないほどまだ幼いのか。そのどちらもが当てはまるのだろう、靴やズボンの裾にじゃれていたと思ったら、今度はよじ登ろうとしている。あまりにも仔猫が積極的なのでなにもできず、ついぼうっと仔猫が自分にじゃれる光景を眺めてしまったいたロテールは、そこではじめて我に返った。

 足下にまとわりつく仔猫を蹴らないように注意しながら、そっとしゃがみ込む。遠ざかっていくズボンの裾に未練があるのかロテールの横に回り込もうとする仔猫の前に手を伸ばすと、今度はそちらに興味を引かれたらしい。わずかに小首を傾げた仔猫が、ぺろりとロテールの指を舐めた。

 なま暖かい感触に、一瞬体中の神経が強張る感じがする。

 だがそれは本当に一瞬のことで、反射的に目を瞑ったときにはすでに過ぎ去っていた。少しは快方に向かっていると解釈してもいいのか、それとも猫と人を一瞬とはいえ取り違えるほどに悪化していると思った方がいいのか。ロテールにはどちらとも断定はできなかったが、手にじゃれる仔猫の感触は決して不快なものではなかった。

 爪を隠した肉球が、手に触れる。引っ張るような仕草に促されて床ぎりぎりまで手のひらを降ろしてやると、仔猫は当然のような顔をして手のひらにちょこんと乗ってしまった。

「……おいおい」

「みゃう」

 思わずこぼれたつぶやきに応えるかのように、仔猫が小さく鳴き声をあげる。何かを訴えるような真っ黒な瞳にため息をつきながら残った片手を添えて抱き上げてやると、今度は満足したかのように鳴いた。

「にゃぁん」

「やれやれ……お前の飼い主はどうしたんだ?」

「にゃあ?」

「悪いな、お前が何を言ってるかはわからないんだよ」

「みゅぅ」

 意志の疎通はまったくないのに、なんだか会話になっているような気がするから不思議だ。

 ベッドに腰を下ろすと、抱いたままだった仔猫を膝の上に乗せる。それまでおとなしかった仔猫は再び興味を呼び起こす対象を見つけたようで、解放されたばかりのロテールの腕に再びじゃれつくと、身軽な動作で肩へとよじ登っていった。

「……俺は木か?」

 その鮮やかな動作を横目で眺めつつ、ロテールは苦笑まじりに呟く。確かに人の怖さを知らない仔猫にとっては、人間も木も大差ない遊び場だろう。人間の方が背が低く動き回ってくれるだけ、仔猫にとってはちょうどいいのかもしれない。

 それでも決して厚いとはいえないロテールの肩は、あまり居心地の良い場所ではなかったのだろう。落ちまいと爪をたてたようで、ロテールの肩に皮膚が破れる痛みが走った。

 猫の爪につけられた傷口から、血が流れ出てきたのがわかる。人ごとのように痛みがするほうへと顔を向ければ、白いシャツの肩口にぼんやりとした紅い染みができはじめていた。

 紅。

 血の色。紅い流れ。

 思い出したくない色だ。この色とともに刻みつけられた傷跡は、ロテールが思っているよりも深い。ふとしたことから、そこに思考と記憶が戻る。……思い出したくなどないのに。

 忘れたいことほど、いつまでの記憶に残る。もしかしたら忘れたいと強く思うことで、忘れたいはずの記憶を何度も反芻しているからなのかもしれない。

 肩の痛みはぼんやりとしていて、よくわからない。肩の上で、仔猫は自分がつけた傷からの出血に驚いてますます爪をたてている。それじゃあ逆効果だと口にしようとして、口を動かすことができない自分に気がついたとき。

 肩から仔猫の重みが消え、暖かい光が肩の痛みをやわらげた。

 

 

「何をやっているのかと思ったら……」

 呆れた表情でロテールの肩に手を当てているのは、見慣れた黒ずくめの青年。

 つい先刻までそこで震えていた仔猫は、今はもうそんなことは忘れましたと言わんばかりの顔でレンにじゃれついている。

 そしてロテール自身も、声をかけられるまでまわりすべてに霞がかかった状態だったことなどすっかり忘れていた。

「ずいぶんと自虐的な遊びをしてるね、君たちは……」

「……別に、わざとやってたわけじゃないぞ」

「わざとやってたんだったら、真剣にカウンセリングの必要性を検討するね」

 まったく反論になっていないロテールの反論にわざとらしくため息までついてみせたレンは、魔法で治療し終わったロテールの肩をぽんと叩くと仔猫を両手で抱き取る。

 そのままひょいと自分の目の前まで持ち上げ、少しだけ顔をしかめてみせた。

「君も、人の肩で爪をたてちゃいけないよ。君たちの爪は、立派な武器なんだからね」

「にゃぁ……」

 レンの言葉がわかっているとも思えないが、鳴き声は反省しているようにも聞こえる。

 だが、まあ猫だしとよくわからない納得の仕方をしたロテールの判断を裏切るかのように、レンの手を離れた仔猫はロテールの方へと駆け寄ってきた。そして、まるで謝罪するかのようにぺろぺろとロテールの手を舐める。

 ……もしかしたら、本当に人の言うことを理解しているのかもしれない。そう思うと、なんとなく胸のあたりに暖かいものが浮かんできた。

 手を舐め続ける仔猫の頭に残ったほうの腕を伸ばし、驚かさないように優しくなでる。そうすると仔猫は気持ちよさそうに目を細め、最後に頭をなでていたほうの手をぺろりと舐めると、飼い主であるレンの方へと駆け寄っていった。

「……ふふ、いい子だね」

 ベッドのシーツにひっかかりそうになりながら駆けてきた仔猫を再び抱き上げると、レンはくすりと笑みをもらす。安心しきった顔をしてそのままレンの腕の中で目を閉じた仔猫を見守るその表情は、まるで我が子を見守るような優しいもので。

 日頃ロテールに向けている、何を考えているのかわからない穏やかだけれども作った笑顔とはまるで違う。心の動きに沿って自然と出てくるその優しい包み込むような笑顔は、ロテールが今まで見たこともないものだった。

 ……よくよく考えれば、レンがそんな笑顔をこぼすところを見たのも初めてだったが。

 誰かがそんな笑顔をロテールに見せてくれたことも、なかったような気がする。

「……猫相手だったら、そんな顔もするんだな」

「……え?」

 無償の愛、とでもいえばいいのだろうか。

 そんなものを欲しがったことはないはずだけど。

 でも、きっとそんな前提がないと、あんな笑顔は浮かべられない。

 ……少なくとも、今のロテールがあんな笑顔を見せることは、たぶんない。

「そんな安心しきった優しい顔、俺には見せたことない」

「そりゃね。この子は、かわいい庇護すべき相手だし。……この子も、俺が自分に危害を加えないことをよく知ってる」

 レンの腕の中で、仔猫はやすらかな寝息をたてる。

 優しく体ををなでる白い手がたとえ他の生き物の命を奪っても、決して自分を傷つけることはないと知っているかのように。

「……餌をくれる相手だって認識してるだけじゃないのか?」

「それでいいんだよ。別に、何か見返りを要求してるわけじゃないからね」

 見返りを要求しない愛情なんて。

 今まで、巡り会ったことがあっただろうか?

「じゃあ……俺は?」

「……へ?」

 ロテールも無意識のうちに口をついて出た言葉は、レンにとってまったく予想だにしてなかったものだった。

 そのせいか、聞き返し方もかなり間の抜けたものになる。思わず、仔猫をなでていた手の動きも止まってしまった。

 一方ロテールは自分が口走った台詞の内容に驚きながらも、これ以上はない切実さでもう一度問いを口にする。

 理由なんて知らない、わからない。でも。

 あんな笑顔を自分にも向けて欲しいと思ったことは、事実だ。

「あんたにとって、俺は?」

「そうだねぇ……わがままで手のかかるお坊ちゃまってとこかな……なんだ、この子とあんまり変わらないな」

 そう、レンは呟いて。

 ロテールに、春の日溜まりのような笑顔を向けた。

 

 

「そういえば……」

 ロテールが開けようとしない出窓の桟へと体重をかけたレンが、まるでたった今気づいたかのように口を開く。

「さっき、俺が肩に手を置いてもなんともなかったみたいだね? 快方に、向かってるのかな?」

 そしてロテールは、面と向かって言われるまでそれにまったく気づかなかったことに対して、少なからず衝撃を受けた。

 


To Be Continued

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