風が運ぶ。

 光が踊る。

 緑がそよぐ。

 

 そして……秘畢の丘に、夢の時間が訪れる。

 

 

First

 


 

 

 木漏れ日を浴びながら木々を抜けた先にいつもの光景を見つけ、ロテールは落胆したようなほっとしたような、そんな複雑なため息をもらした。

 いつもと変わらない、光景。黒髪の青年はすやすやと寝息をたてて、花の中にうずもれている。
 彼が、ここにいない時はあるのだろうか?

 ついそう考えてしまうほど、青年はいつでもここにいた。

 ロテールが休日ごとにここを訪れるようになってから、それなりに月日も流れている。だが、彼が青年より先にこの秘畢の丘にたどり着けたためしはない。
 今日のように何度か早起きして挑戦してみたりもしたのだが、ことごとく失敗に終わっていた。

 

 そもそも、なぜ休みになるたびに、ここに足を運んでいるのだろう。

 今でも、ロテールにはその答えがわからない。

 

 休日のたびにここに来ているのだから、当然女遊びの回数もそれなりに減っている。「生き甲斐」とまでうそぶいていた女遊びをおしてまでここに来る理由は、いったい何なのだろうか?
 原因となるべき要因はたったひとつしかなかったが、なぜそうなのかはロテール本人にも見当がついていない。いや、本人だからこそ、気づいていないのかもしれない。

 女友達のひとりでもこのことを相談してみれば、おそらく一言の元に答えを弾き出してくれるだろう。それが正しいか否かは別にしても、行動だけ見ていれば、そう思わせるだけの説得力があった。

 

 それでも本人は気づかない。

 そして青年は、ここを訪れる彼を笑って迎えるだけである。

 

 

「やあ、今日はずいぶんと早いね」

 黒髪の青年はたとえ熟睡していても、ロテールが姿を現すと、まるでそれがわかっていたかのように起きる。

 よく考えてみれば、ここへ来る時間は日によってまちまちだ。必ず目を覚まして迎えてくれることよりも、必ずそれまでは寝ている、という事実のほうが驚くべきことなのかもしれない。

 それでも寝っころがったまま、とても起き抜けとは思えない満面の笑顔を見せてくれる。

「早いって、それでもレンにはかなわないんだからなあ」
 呆れたようなすねたような口調でロテールはそう言うと、いつものように青年の隣で仰向けになった。

 ロテールもここしばらく休日になるとここに来ているが、やってることといったらレンと名乗った青年の隣で寝そべっているだけだ。
 一見無表情なレンは、それでも笑っている限りはなかなかおしゃべりで、しかも話上手だった。聞き上手でもあったので、会話が途切れることはめったにない。会話がなくなるときは、たいていどちらかが睡魔に負けて、気持ちよく眠っている。

 実際、秘畢の丘は風も柔らかく日差しも気持ちよく、騒音もない。

 うたたねをするには絶好の場所だった。

「あははは、俺に勝つのは無理だよ。だって、ここが俺の家みたいなものなんだから」
 上半身だけ身を起こして、レンがなだめるようにロテールの頭を軽く叩く。
 はじめはそういった態度にいちいち反論していたロテールだったが、すでに子ども扱いされることにすっかり慣れてしまっていた今は、疑わしそうな視線をレンの方へ向けるだけだ。
「家ぇぇぇぇ? そんなわけないだろうが」
「うーん、別宅みたいなものかな? 仕事のないときは、たいていここにいるしね」
「自宅はどうした、自宅は」
「自宅? そんなものないよ。強いて言えば仕事場が自宅で、ここが別荘ってところかな?」
「あのな〜」
「嘘は言ってないんだけどなあ」

 のほほんとつぶやくと、レンは優しく明るいのに、どこかとらえどころのない笑顔を見せる。
 無邪気なのにどこかあやういその笑顔は、特にロテールを惹きつけた。

 たまに見せる魅惑的な笑顔もいい。子どものように天真爛漫な笑顔もいい。
 だが、ロテールがいちばん惹きつけられるのは、この少し衝撃を与えるだけで割れてなくなってしまいそうな、淡くあやうい笑顔だった。

 

 無意識のうちにレンの横顔に魅入ってしまったことに気づいて、ロテールは慌てて視線を空に戻す。

「……って、よく考えたら兵舎があるだろう? 近衛騎士団だけ兵舎なし、なんてのは聞いたことがないぞ」
「ああ、あるねぇ、そういえば。でも、俺の部屋はあそこにはないよ」
「兵舎に部屋のない騎士なんて、初耳なんだが」
「前に言ったじゃないか、仕事が特殊なんだよ。だから、兵舎に部屋はいらないわけ」
「どーゆー仕事だよ、そりゃ」
「ナイショ」

 レンがこう言ったら、本当になにも教えてくれない。
 好奇心を寸前で絶たれてむくれるロテールを見て、レンはクスクスと笑った。

 

 

Second

 


 

 

 レンは、自分のことを何一つ話そうとしない。

 名前はけっこう簡単に教えてもらえたが、これだって本当の名前かどうかはわからない。
 そもそも、自分ははじめからこっちの名前を知っていたくせに、自分の名前は聞かれるまで言おうともしなかった。

 そのくせ、レンはロテールのことは聞きたがった。ロテールもロテールで、なぜか聞かれれば素直に話してしまう。
 ロテールも、教えてもらえずにふてくされるくらいなら自分も話さなければよさそうなものだが、レンににっこりと惜しみなく笑顔を披露されて、

「教えてくれる?」

 と言われると逆らえないらしい。

 だから、なんでも話した。話したかったし、それに聞いてもらいたかった。特に胸の中にわだかまっていた母親のことも弟のことも、レンに話しただけでなんでもないことのように思えてきた。

 別に、特別なことを言われたわけではない。
 ただ笑顔で聞いてもらっているだけで、心が軽くなった。

 人が言うほど、自分に自信を持っているわけではない。傲慢に気ままに生きているように見えても、心にはどこか影があった。
 今までは、誰にも影を悟られたくはなかった。だから人当たりはいいまま、人を信じようとは思わなかった。信じていた人に手ひどく裏切られた傷は、そう簡単には癒えることはない。それが幼少のころであればあるほど、傷は……特に、精神的な傷は深く残る。

 

 自分のすべてをさらけ出しても、受けとめてくれる相手。
そういう相手に会えたのは、初めてだった。
 こんなに居心地のいい場所を、手放したくはなかった。

 

 だからこそ。

 何も話してもらえないことが、悔しく、悲しいのかもしれない。

 

 

「まったく、あんたってヤツは自分のことは何も話さないんだからな。ほとんど会ったこともない黒翠の聖騎士のところまでわざわざ聞き込みにいったのに、得られた情報はゼロだし」
「そりゃあね。騎士団長が、部下とはいえ単なる一般騎士のことを逐一覚えているわけないじゃないか。それにしても……」

 そこでいったん言葉を切って、レンはロテールの方に向き直った。

「わざわざ聞きに行ったのかい? ヒマ人なんだねえ……ロテールって」
「ヒマだからって、わざわざそれだけで聞きにいくわけないだろう、普通。大体、平日にヒマなんてほとんどないぞ」
「ふーん。それじゃあ、なんで?」

 にっこりと一見人畜無害に見える笑顔を披露して、レンは楽しそうに尋ねた。

 あくまでも、一見だ。
 よく観察すれば、目がいたずらを楽しむ子どものように輝いている。

 だが、ロテールはそんな細かいところには気づかない。いや、気づけない。

 なぜなら、問いかけられた内容は、今自分がいちばん知りたいことだったからだ。

「なんで、わざわざ騎士団長のところまで、聞きに行ったりしたのかな?」
「知りたい……知りたかったから、じゃいけないのか?」

 本当に言いたい答えは見つけられないまま、ロテールはそう口にした。
 当然、レンからは呆れたような返事がかえってきただけだ。

「なんで知りたいのか、を聞いているんだよ」
「なんで……なんでだろう?」
「君にわからないものが、俺にわかるわけないじゃないか」

 婉然とした微笑みを浮かべて、レンが耳元でささやく。

「今日はお帰り。ゆっくりと考えて……答えが出たら、またおいで。待ってるよ」

 

 

Third

 


 

 

 陽光の差すことのない塔の一室に、彼はいた。

「レン様……よろしいですか?」
「かまわない……どうした?」

 秘畢の丘で聞ける声とはまったく違った、低く冷たい声が響く。

 かけられた声に、振り返りもせずに答える。相手も慣れたもので、薄暗い室内には足を踏み入れようとはせず、入口で軽く礼をとった。

「燐光の聖騎士殿のことで」
「ああ……それで?」

 からかいがいのある金髪の青年の顔を思い浮かべて、レンは気づかれない程度に薄く微笑む。
 そして、声色までがらりと変えて軽く言った。
「仕事の話じゃないんだから、そんなにかしこまらなくてもいいよ」
「じゃあ、お言葉に甘えさせていただきますが……いったい何やったんですか、レン様?」

 相手も感情をセーブしていた物言いから一変して、こちらはあからさまに呆れた口調になる。

 一方いきなり「何をやらかしたんだ」と詰問されたレンは、脳天気な笑顔を浮かべて入口に立つ人影を手招きした。
「まだ何もやってないよ。まあ、立ち話もなんだから入っておいで」
「それでは……失礼します」

 さりげなく口にしたであろうレンのセリフにぴくりとこめかみを反応させて、彼は一礼すると室内のソファでくつろぐレンの元へと歩み寄った。レンの指が指し示すままに、向かい側のソファに腰をおろす。

 そして眦をつり上げて、ごほんと一つ咳払いした。
「で……『まだ』ということは、これから何かをなさるわけですね?」
「あのね、君……頭っから俺が何かをやらかすって決めてかかってないかい?」

 いつも以上に手厳しい部下の様子に閉口したのか、苦い笑いを口元に浮かべている。
 もっとも尋ねられた相手は、決して悪びれることもなく、きっぱりと言い切った。

「違いますか?」
「……違わないけどね」

 少々の間をおいて、それでも飄々とそう言い放った上司の顔をまじまじと眺めながら、彼はわざとらしく盛大にため息をついてみせた。
 口には出さなくても、顔が「ほーら、みなさい」と言っている。

 なまじつき合いが長いだけ、この上司のハタ迷惑な性格は熟知していた。

 好き勝手やっているほうは、いい。被害をこうむるのは、裏方作業に徹する自分である。
 それでもため息をつきながらフォローをして歩いているのは、仕事に関しては間違いがないからだ。

 仕事上の上司としては、尊敬している。

 だが私人としては、たしなめたり呆れたり火遊びの後始末をさせられたり、とロクなことにかかわった覚えがない。欠点も、数え上げればキリがない。
 だが、だからこそいっしょに仕事ができるのかもしれない、とは思わないでもなかった。
 完全無欠の人間などいやしない。いたとしたら、きっとその人物と共にあることは、苦痛でしかないだろう。自分が完全な人間でないことを知っている者は、よけいに。

 彼にとってレンは絶対の上司であり、決して公にされることはない仕事に従事している、数少ない同志でもある。
 職務には忠実で、ともすれば(仕事の内容柄もあるだろうが)冷徹な人間と思われがちなレンの本当の姿を知っているからこそ、尊敬しつつも息詰まりを感じることなくいられるのだろう。

 本当に人間かどうかもわからない相手に、人間臭さを感じて安堵する、というのもおかしな話だが。

 

 だが、それとこれとは、別である。

「……ロテール殿をどうこうしろ、という王命は下っておりませんよ」
「わかっているよ、そんなこと。これは任務とはなにも関係ないってこと、君がいちばんよく知ってるんじゃないかい?」
「私が言いたいのは、燐光騎士団を預かる方にちょっかいを出してただですむと思っているのですか、ということですっ!」

 さすがにプチッと何かが切れたのか、それでもなけなしの自制心を総動員して静かにレンを睨み付けた彼に向かって、レンはひらひらと手をふってみせた。
「大げさだなあ。なにも聖乙女に手を出したわけじゃあるまいし……」
「そんなことになってたら、とっくに私の首が飛んでますよ、レン様」

 どうやら何が言いたいのか、まーったくわかってもらえていないらしい。
 のほほんとした態度を崩す気もないレン相手に、とうとう怒る気力も失せたのか、はあっと大きくひとつため息をつく。

「どうせレン様のことだから、とは思っていましたけど。本当に、そういう意味で手を出すつもりだったんですね」
「人聞きが悪いね。まるで俺が遊び人のようじゃないか」
「違うんですか? 表に出ないだけで、やってることは燐光の聖騎士殿とほとんど変わりませんよ、ご心配なく」

 表に出ない、というか出してはマズイ以上いろいろと裏で後始末をしていただけに、彼の言葉には重み、というか説得力がある。

「近頃はずいぶんとおとなしくしていらっしゃると思っていたんですが……」

 彼が言っていることはいちいち事実なので、レンは今一つ効果的に反論できない。

「ロテール殿に『レンという近衛騎士のことを教えて欲しい』と言われた時には、一瞬どうしようかと思いましたよ」

 おとなしくしていたと思ったら、いきなりこんな大物を狙っていたとは。

 口には出さなくても、彼の言いたいことは手にとるようにわかる。
 もう少し苦労をしょいこんでいてくれと心の中では呟いたものの、さすがのレンもそれを口に出そうとはしなかった。

「黒翠の聖騎士なんて立派な肩書きがあるんだから、それくらい適当に処理しておいてくれよ」
「なーに甘えたことおっしゃってるんですか。仕事ならともかく、私はレン様の火遊びのフォロー係じゃないんですからね。間違えてらっしゃいませんか、まったく」
「火遊びじゃなかったどうするのかな?」

 間髪入れずに飛び出したレンのセリフに、近衛騎士団長である黒翠の聖騎士は、上司であるレンをついまじまじと見つめてしまった。

 その表情からそれが嘘ではないことを読みとると一瞬安堵しかけ、そして何か重大なことに気がついてしまった、という顔で背もたれに預けかけていた体重を引き戻す。

「まさか、聖騎士をかどわかすつもりじゃないでしょうねっっ?」
「……そんな風に見えるかい? 信用ないなあ」
「このテのことでレン様を信用して、ロクな目にあった記憶はありません」
「そんな記憶はさっくり切りとばしてしまいなさい」
「安心して切りとばせるような、誠意ある行動をとっていただきたいものですね」
「相変わらずきっついこと言うなあ〜」
「本気なら本気で、一向に構いません。その分火遊びが減れば、私もだいぶ楽をさせていただけるというものです。ただ、燐光の聖騎士殿がその任期を終えられるまでは、くれぐれも自制してくださるようお願いいたしますよ」
「……やっぱり、信用してないね?」
「当たり前です。……では、失礼したします」

 きっぱりとそう言い切ると丁寧な礼をして、黒翠の聖騎士は漆黒の聖騎士の塔を後にした。

 

 

「ま、慌てるのもしょうがないか。にしても……」

 相変わらず毒舌の冴える部下を見送って、レンはワインを満たしたグラスに口をつけた。
 そして、不思議そうに呟く。

「俺のことを聞きにきただけで、あそこまで看破されるなんてねえ。まあ、あいつが鋭いのもこういう処理に慣れてるのもわかってるけど……あの坊やは、いったいなんていう聞き方したんだろうね?」

 


To be Continue … 黄昏の聖跡2

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