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晴れていたのに、いつのまにか雨が降りだした。
はじめは細くまばらな雨がぱらついているだけだったのだが、さほど時がたたないうちにかなりの大降りとなってきた。出立した時は晩秋らしいさわやかな青空が広がっていたのだから、当然のごとく、突然降り出した雨に対する備えなどない。 大粒の雨を嫌がる馬をなだめてはいるものの、ロテール・アルヌルーフ=リング・テムコ・ヴォルトは、すでに自分のほうがうんざりしてきていた。 「まったく……たまに家に帰ると、こうだからな。だから、嫌だったんだ」 だんだん激しくなりつつある雨足に顔をしかめながら、ぶつぶつと呟く。雨が降りだしたのは偶然以外のなにものでもないのだが、不本意なことを渋々行動にうつした直後のことなので、なにかと思考がひねくれてしまっている。 しかもようやく解放され、あとは王都へ帰るだけというときになってこの大雨だ。早く進みたいのに馬の足は鈍るし、それをあざ笑うかのように雨は酷くなってくる。雨期ならばともかく、こんな季節外れの大雨に遭遇してしまった自分の運のなさを、ロテールはつくづく思い知らされた。 「たまったもんじゃないな、まったく……」 雨だけでなく、風も出てきた。遠くでは雷まで鳴っている。このまま進むのも、そろそろ限界だ。 このあたりは王都にほど近い郊外で、道の両脇には手入れされていない自然の林が延々と広がっている。いわゆる裏街道というべきさびれた道なので、道中に雨風をしのげるような建物もなければ、この辺りに住む人々の民家もない。森というほどは深くなく、公園というほどは整備されていない自然のままの林の木々はほぼその葉を落としてしまっているので、やはり雨宿りをするには向かない。先に進むしか打開への道はないのだが、それもまた難しい。 「仕方ない……か」 ため息ひとつついて、馬の首を林の方へ向ける。木々は雨宿りの役にはたちそうもないが、これでは先にも進めない。少し林の奥へ行けば、もしかしたらまだ葉の落ちていない木があるかもしれない。 もっとも、そんな百万分の一にしかありそうもない偶然にはさほど期待してもいないのか、すでに急ぐこともあきらめてゆっくりと馬を進める。雨と風と雷の音、そして濡れた落ち葉を踏みしめる音だけが響く中で、ロテールは空を降り仰いだ。 灰色の雲が、重く垂れ込めている。時折視界のすみに光が走り、間をおいてから轟音が空を引き裂く。勢いを増して打ちつける雨さえなければ、なかなかに美しい光景だった。 心に余裕があれば、たとえこんな状況に陥ったとしても、もう少し楽しめただろうに。 たった数日とはいえ、自分が治めるべき領地で過ごした時間は、ロテールの心をささくれ立たせていた。妙に苛立っているのが、自分でもわかる。 このままでは、何の罪もない馬に八つ当たりをはじめたくなりそうだった。その前にどこか休める場所を見つけなければ、と自分に言い聞かせた、その時。 雷光に照らされ、木々の隙間から古びた館が、見えた。
嵐がきているというのに明かりもなにも灯っていないその館には、誰も住んでいないようだった。 とりあえず馬を屋根のあるところに繋ぎ、玄関の扉を叩く。しばらく待っても、当然返事は聞こえてこない。もしかしたらと思いつつ取っ手に手をかけてみれば、重々しい音は響いたものの、あっさりと開いた。 中を覗いてみる。暗がりでもわかるほどあちこちに埃が積もった屋内は、ここが無人の館だということを雄弁に告げていた。 「最後の最後でかろうじて、運命の女神が味方したってとこかな……?」 たとえ埃だらけであろうが、屋根のあるところで雨宿りできるだけでも幸せなことだ。どうやらかなり長時間に渡って住む者もなく放置されていた館のようだから、一日くらい有効に活用させてもらってもバチはあたるまい。 今日はここで休むことに決めて、ロテールは行動を開始した。 まずは屋根のある場所に繋いでおいた愛馬を、馬屋に入れてやる。 さすがに馬は一頭もいなかったが、寝床になりそうな干し草はあった。飼い葉になるかどうかはわからなかったが、危険を感じれば馬の方が気づくだろう。鞍を外してから濡れぼそった体を布でふいてブラシをかけてやると、嬉しそうに嘶いた。 馬を休ませて、ふたたび表玄関から館の中へと入る。石造りの床に積もった埃が、久しぶりの客人を迎えて舞い上がった。 ランプも蝋燭も手近にないので、どうにも薄暗い。 本来であればまだ明かりは必要ない時間だが、今は嵐だ。光源となるものといえば、時折窓の外に走る雷光しかない。 ひとまず明かりを探そうとして、玄関からすぐ右側に繋がっている控えの間を覗く。油の切れたランプしかないことを確認して、今度は玄関正面に広がる広間へと足を運んだ。 ここにも、明かりになりそうなものはない。ため息をひとつもらして左側の部屋へ入ろうとしたロテールはその時、背後で床がきしむ音を聞いた。 石造りの床がきしんだ音をたてることはない。音をたてるとしたら、おそらく木製の階段だけだ。 人気のないこの館の中で音がすることがあれば、それはおそらくロテールがたてたものだろう。だが、この状況でそんな音はたてられない。ということは……? 背後を警戒して、振り向こうとする。だが、次にそんなロテールの耳に聞こえてきたのは、聞き覚えのある声だった。 「……ロテール?」 「……え!?」 ここにいるはずのない人の声に、ロテールの思考はストップする。 そのまま、弾かれたように振り返る。 先刻までは人の気配すらなかった場所に、彼はいた。 たとえ暗くてはっきり見えなくとも、見間違えることはない。声を聞き違えることもない。 わからないのは、なぜ、そこに、いつからいるのか、ということだ。 「レ……レ、ン?」 それでも確かめるように、ロテールは彼の名前を呼んでみる。 「ああ……やっぱり。どうしたんだい、こんなところで?」 微妙にきしんだ音をたてる階段にたたずむ人影は、いつもと同じく近衛騎士団の制服に身を包み、動揺を隠しきれない笑みを見せた。
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レンが乾いた薪をくべると、暖炉の炎はひときわ大きく燃えあがった。 炎にあおられ、薪がはぜるパチパチという音が静かに響く。 外を見れば雨と風が吹き荒れているが、屋敷の中は外の騒音とは無縁の世界だった。意外と厚いガラスと頑丈な壁が、外界からの影響を遮断している。 髪からこぼれ落ちる滴をタオルでふき取りながら、ロテールは埃よけの布を取り払ったソファに腰をおろした。 雨に濡れた服は、絞れるくらいに水を含んでいた。いつまでも着ていては風邪をひくだけだと早々にはぎ取られ、今はかわりにレンがどこからか調達してきた毛布を被っている。 もう冬も間近な今の季節は、さすがにそれだけでは肌寒い。暖炉のありがたさが身にしみた。 「こんなめったにこない嵐に遭遇するなんて、ついてないね」 暖炉の脇に座り込んで壁に頭をもたせかけたレンが、静かに口を開いた。 その力のなさに、ロテールのほうが驚いてレンのほうへと向き直る。炎に照らされたレンの横顔も、口調と同様に元気がない。 毛布を被ったまま、レンに近づく。ロテールが横からのぞき込むとやっと視線に気づいたのか、レンは顔をあげて微笑を作った。 「? なんだい、ロテール?」 「いや……ちょっと気になっただけだよ」 本当はちょっとどころではなかったのだが、レンの表情を見たロテールは何も聞けなくなってしまう。 訊ねようとした言葉はそのまま飲み込み、座り込んだレンの背中に甘えるようにもたれ掛かった。 レンの肩越しに両腕を回し、首筋に顔を埋める。思ってもいなかったロテールの行動に、レンは目を丸くさせてそちらを見た。 「ど、どうしたんだい?」 「……俺、今週どこに行くかレンに言ってあったか?」 後ろから抱きついたまま顔だけをあげて、心にあることとはまったく別のことを口にする。 至近距離にあるレンの顔が不思議そうな表情を見せてそのまま首を横に振ったのを見届けてから、ロテールは言葉を選びつつ話しはじめた。 「領地に帰ってたんだ。父親の命日、ってやつでね……できれば、しばらくは近寄りたくなかったんだがな」 「近寄りたくないって……君は仮にも伯爵じゃないか。責務は果たさないとダメだよ?」 「俺が聖騎士の地位にいる間は、弟がすべてを取り仕切るって約束になってるのさ。王宮に出仕が必要な仕事は、王都にいる俺がやってるがな。……そもそも俺が領地に近寄りたくないのは、あいつのせいなんだぞ」 別に嘘を言っているわけではないので、自然と顔がしかめっ面になっていく。 レンの様子に気を取られてすっかり忘れていたが、故郷へ帰ったことで最低な気分になっていたのは事実だった。 思い出してしまうとまた気になるというもので、ロテールはこみ上げてくるイライラを解消しようと両腕に力を込める。自分に抱きつく腕にかかる力を感じとったレンはそっと左腕を持ち上げると、なぐさめるように優しくロテールの濡れた髪をなでた。 「弟くんかい? なんでそう聖騎士らしくない所業ばかりするのか、とでも言われたかな?」 「……それも言われたよ。それだけじゃないけど」 「君と違って、真面目なんだねえ」 なまじレンが感心したかのように言うので、ロテールは忘れようとしていた弟の言動をすべて思い出してしまった。 決して嫌いな相手ではないのだが、苦手なものは苦手なのである。 しかもレンが弟の肩を持つかのような言い方をするので、ロテールはおもしろくない。 「あいつが真面目なのは認めるけどな。わざわざ余分に一言つけ加えることはないだろ」 「自分を客観的に見つめるのは大切なことだよ、ロテール? まさか清廉潔白に毎日を過ごしてる、とでも言うつもりじゃないだろうね?」 「…………それは嫌味か?」 頻度は減ったとはいえ女遊びをやめていないことを暗に指摘されて、ロテールはわずかに動揺する。 隠していたつもりはないから、いつかバレるだろうとは思っていた。街中や王宮で会うことはまずないが、レンの情報力はなかなかに侮れないものがある。 案の定バレていたかと動揺しつつも、少しだけ期待する。しかしレンが穏やかに微笑みながら口にした台詞は、そんななけなしの期待を大きく裏切るものだった。 「なんでかな? 毎晩有意義に過ごせる相手がいるというのは、じつにけっこうなことじゃないか」 あまりの反応に、ロテールは咄嗟に言葉が出てこない。 一瞬呆然としてしまったロテールを見て不思議そうに首を傾げるレンの姿に、ようやく自分を取り戻す。どうにも力が抜けそうになる身体を叱咤激励して、気力を総動員しつつ声を絞り出した。 「それは確かにっっ、そうだがっっ! それをレンが言うわけ、俺にっっ!?」 「あ、なんだ。もしかして、妬いてほしかったとか?」 「当たり前だろ」 「ふふ、かわいいこと言うね。でもね、君がいちばん愛しているのは俺だってわかっているのに、どうして妬いたりする必要があるんだい?」 ふたたび、何も言えなくなってしまう。 さらりと言われたその台詞の内容に絶句し、理解してから反論しようとしてまた絶句する。なぜなら、まったく反論できなかったからだ。 効果的な反論を探そうにも、出てこない。「そんなことはない」なんて心にもないことは、当然ながら口にできない。結局はいいようにあしらわれている自分に歯がみしながら拗ねた口調でぼそぼそと、素直に自分の気持ちを言い募るしかできなかった。 「……信じてもらえてるのは嬉しいけど、全然妬いてもらえないってのは……嬉しくない」 「やれやれ、わがままな子だなあ。女遊びをやめる気がないんなら、俺がうるさく言わない方が都合がいいような気がするけどねえ」 「程度によるぞ。ここまで気にもされてないと、俺のことなんてどうでもいいのかなって気になってくる」 「つれないな。こんなに愛してるのに、わかってくれないとはね」 レンはそのまま身体ごと向きを変えると、耳元で拗ねたようにつぶやくロテールの頭に手を伸ばして、そっと唇を合わせた。 触れるだけの軽いキスを与えて、レンの唇は離れる。ロテールは続きをねだるように、今度はレンを正面から抱きしめた。 そして首筋に顔を寄せ、耳朶を噛むようにしてささやく。 「とりあえず……実家で思いっきり嫌な思いをしてきた恋人を、なぐさめてくれる気はないか?」 「なぐさめてほしいのかい? 俺でいいんなら、かまわないよ?」 「……さっきああいうこと言ったのと同じ口から、『俺でいいんなら』とか言うか……?」 「やっぱり、こういう時は女性のほうがいいんじゃないかなあ、とか思ってみたんだけどね。余計なお世話だったかな?」 「俺はレンがいいの」 「光栄だね」 極上の笑みを見せると、レンはふたたび自分から唇を重ねた。
もちろんレンには、わかっていた。ロテールがレンを元気づけようとして、あんな話をはじめたことは。 自分をなぐさめさせることで、どうにも覇気のないレンにいつものペースを取り戻させようとしたのだろう。 なによりも、それを悟らせないように遠回りなやり方を選んだ、ロテールの心が嬉しかった。 何をしようとしているのかはすぐにわかってしまったが、気がつかないふりをして乗せられた。まさか最終的にこうくるとは思わなかったが、それでもいいかという気になっている。 少なくとも、この屋敷に来たときの、どうしようもないやるせなさは消えていた。
「そういえば……」 「な……ん、だい?」 「レンはどうしてここにいたんだ?」 息が詰まるほど長いキスの後、ロテールはいちばん訊きたかったことを口にした。 いつも以上に長く深い口づけを与えられたレンは、切れ切れになりそうな呼吸を整えつつもあっさりと答える。 「……古い知り合いの、屋敷だったんだけどね」 首筋に唇が降りてくるのを待って、レンはロテールの背中に腕を回した。 毛布ごしに、きつく抱きしめる。頭の中に残る思い出の残滓を振り払えないまま、一瞬レンの横顔に寂しげな笑みが浮かんだ。 「もう……だいぶ昔の、話だよ」
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To be Continue … 琥珀色の夢の跡2