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屋敷の中はすっかり古ぼけていたし埃も積もってはいたが、それなりに手入れはされていた。 アルバレアにおいて建築技術の進歩というものは顕著ではなかったが、それでもこの屋敷がかなり昔に建てられたものだといことは、歴史や建築に興味のないロテールにもわかった。置かれている家具や調度品も、どれも骨董品と呼べそうなものだ。 ロテール自身代々続いた旧家の出身であるので、そういったものは見慣れていたはずだった。だがここにあるものは、おそらくそれらよりもかなり前に作られたものだろう。アンティーク家具のコレクターが見たら信じられずにそのまま卒倒してしまいそうな、価値のあるものばかりである。 精緻な細工の窓枠に感心しながらも、ロテールは厚いガラスのはまった両開きの窓を開け放った。 一晩中吹き荒れた季節外れの嵐は、夜が明けたらまるで冗談ででもあったかのようにすっかりなりを潜めている。 「腹立ってくるな、ここまで晴れると。俺の昨日の苦労はどうしてくれる」 呆れるくらいに晴れ上がった青空を見上げてつい憮然とつぶやいてしまっても、誰にも文句は言えまい。 暖炉の前に一晩中放って置いた服は、とりあえず一通り乾いている。相当しわだらけにはなっていたが、背に腹はかえられない。 しかめっ面をしながらシャツに腕を通すロテールに視線を向けながら、まだ毛布をかぶったままのレンは楽しそうに笑った。 「相変わらず贅沢なことを言ってるね。今日もまた嵐だったらどうするつもりだったんだい?」 「そりゃ、このままここでなんとかなるのを待つしかないだろ」 「燐光の聖騎士ともあろう者が、いつまでも王都を離れてていいのかな?」 「よくないけど。……って、大嵐の中、馬を飛ばして帰れって言うわけか、あんたは?」 「若いときは、それくらいの無茶をやる覚悟があってもいいと思うよ」 すました顔でこう言うと、レンはそのままソファに横になって丸まってしまう。どうやら、寝直すつもりらしい。 ふわああ、とのんきにあくびをもらすその姿に、ロテールはわざとらしく音をたてて窓を閉めた。 「人には無茶をやれなんて言っておいて、あんたはそこでまた寝に入るわけか?」 「もうトシだからね〜、俺は。ムチャなことをすると疲れて疲れて」 「……いつもは好き放題してるくせに、よく言うよ……」 「何か言ったかい?」 「いや、なーんにもっ!」 言うだけ無駄とあきらめて、ロテールは部屋と廊下を隔てる扉の方へと足を向ける。 まだ出発するつもりはない。せっかくだから、屋敷の中を見て回ってみようと思っていた。 そのまま扉を開きかけて、振り返る。昨晩、レンがここを古い知り合いの家だと言っていたのを思い出したのだ。 どうせのってこないとは思ったが、一応声をかけてみることにする。 「おい、レン? まだ起きてるよな?」 「一応、ね」 「昨日、ここが知り合いの屋敷だって言ってたよな? 案内してやろうっていう優しい心遣いは生まれたりしないか?」 「好きに見てまわったら? どうせ誰も住んでないんだし、少々荒らしたって誰も咎めたりしないよ……起きてからなら、いくらでも案内してあげるけど」 「いや、いい。聞いた俺が馬鹿だった」 予想していたとおりの、しかも想像していた台詞と一字一句たりとも違わない答えを返されてしまったロテールは、毒されつつある自らの思考回路に頭を抱えつつ、よろよろと部屋を後にした。
心地よいまどろみに浸ろうとしてクッションに頭をなつかせたレンは、ふと忘れていたことを思い出した。 昨日、レンをあそこまで落ち込ませた原因である。 どさくさにまぎれて、記憶のすみに押し込んでしまっていたらしい。 「やれやれ……どうやらあの子のカウンセリングは効果的すぎたみたいだね。まったく、我ながら情けないというかなんというか」 自嘲気味につぶやいて、苦い笑みをもらす。 なぜここにくるたびに沈鬱な気分になるのか、落ち込むとわかっていてなぜ年に一度はここに足を運んでしまうのか。それ自体を忘れてしまってどうするというのだ。 しかも忘れていたのをいいことに、屋敷内を自由に見て回っておいで、とも言ってしまった。 見つけられるのは時間の問題だろう。案内することにしていればさりげなく回避することもできただろうが、すでに時遅し、だ。 眠気に負けての自業自得とはいえ、真実を話せない以上、なんとかごまかすしかない。早いところこんな気苦労とは手を切りたいものだとため息をつきながら、レンは名残惜しそうにソファから起きあがった。 そのまま床に散らかしたままの制服に手を伸ばそうとして、やめる。 そう遠くないうちに、ロテールが騒ぎだすだろう。 そうなれば、たとえ熟睡していようとたたき起こされることは目に見えている。なにも、自分からわざわざ出向くこともない。 最後まで気づかない、ということもあり得る。可能性は限りなく低かったが。 もっとも、実際にここまで思考を張り巡らせたのかどうかは、甚だ疑問ではある。 元通りソファに寝っころがると、頭から毛布をかぶって丸くなる。その姿はまるで、溜まりに溜まった宿題から目を背けて安眠を確保しようとする、小さい子どものようだった。 とにかくレンは、眠りかったのだ。今すぐに。
「まあ……それまでは、いいか」
一度開き直ってしまった漆黒の聖騎士の素顔は、どこまでも怠惰だった。
ロテールがレンをたたき起こしたのは意外にも、レンが2時間ほど惰眠を貪った後のことである。
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屋敷はさほど広くは見えなかったが、屋根裏があったり貯蔵庫があったり、と見るべきところは多かった。 すでに植物は枯れてしまっていたが、温室もあった。ただここに人が住んでいた頃は、爽やかな緑を提供して人の心をなごませていたのだろう。 ただの部屋にも、面白いものはたくさんあった。適度に散らかった部屋は、人気もないのにどこかなつかしさを感じさせるようだった。 しかも部屋の中だけでなく廊下などにも、見たこともないようなものが無造作に転がっていたりする。何に使うものかもわからないことは多かったが、好奇心が刺激されることはあっても退屈することはない。 なんとはなしに2階から見て回っていたロテールは、最後に1階奥の部屋を覗いた。 1階はもともと来客をもてなすための部屋が多いので、2階よりはおもしろいものは見あたらない。 なのであっさりとしか見ていなかったのだが、この部屋ではつい足を止めた。 大きなグランドピアノがあったのだ。 すでに光沢はあまり感じられない、かなり古いものだった。窓から射し込む朝日を浴びて微妙に艶を保ってはいたが、もうまともに音は出ないだろう。 それでも、ちょっとだけ弾いてみたくなった。 いわゆる貴族の教養というやつで、幸か不幸かピアノはやらされたことがある。楽器類はどれも器用にこなせたが、ピアノの技術はどうしても弟に勝てなくて悔しい思いをさせられたものだ。 「……なんか、いらんことまで思い出した気がするぞ」 眉をしかめて、嫌な思い出を頭から追い払おうと首を左右に振る。 日頃であれば思い出しもしないような些細なことだが、昨日の今日ではさすがにそうそう切り離せない。実際、帰っている間にそのことで口喧嘩になっている。正確には、ロテールが1人で腹を立てていただけではあるのだが。 なんとなく仏頂面になったまま、古びたピアノに手をかける。鍵盤を覆う重い蓋を開けようとして、ふとロテールは顔をあげた。 そして、そこから目が離せなくなる。 「え…………?」 頭を占めていた苛立ちもなにもかもが、一瞬のうちに吹き飛んだ。 ピアノが置かれた奥の壁にかかっていたのは、かなり昔に描かれたと思われる絵だった。さほど大きなものではない。こういった屋敷の中に飾ることを思えば、小さい部類に入るだろう。それでも、そこそこの大きさはあるが。 風景画とも人物画ともとれない、不思議な構図の絵画だった。 淡いピンク色の花が咲きこぼれる大樹の下に、ふたりの人物が描かれている。どちらも、かなり若い。 漆黒の髪の青年と、金の髪の少女。 たっぷりとした長めのスカートに舞い散る花びらを集めて、金の髪の少女は幸せそうに笑っている。漆黒の髪の青年は樹の幹に背をあずけ、、やさしい表情を浮かべてその少女を見つめていた。 大きさのある絵だから、表情まではっきりと読みとれる。当然、人物の顔かたちまでよくわかる。 「嘘……だろう?」 ロテールが呆然とつぶやいてしまったのも、無理はない。 その青年の顔は若干の年齢差があるとはいえ、レンにうりふたつだったのだから。
「俺と同じ顔の絵? ああ、そういえばあったね」 2時間でたたき起こされたわりには、はじめから覚悟していたせいかレンの寝起きはよかった。 「あったね、じゃないだろうが。なんだってどう見ても五百年以上昔に描かれたような絵に、あんたと同じ顔の人間がいるんだよ」 「そんなの、他人のそら似に決まってるじゃないか」 とりあえず服を着るだけの猶予は与えてくれたので、レンもかなり適当ではあるが人前に出られる格好にはなっている。それでも上着はまだ手に掴んだままの状態で、ずるずるとピアノの部屋に引きずられてきていた。 驚くのはわかるが、まだ寝かせておいてほしい。 そんな心情がありありとあらわれているレンの態度に、はじめは単純に驚いていただけのロテールも、ついついむきになってしまっている。 「世の中、3人は同じ顔の人間がいるっていうじゃないか。何百年前の絵だかは知らないけど、そんな昔にだったらひとりやふたり、俺と同じ顔の人間がいてもおかしくないと思うけどなあ」 もっともらしいことを言っておいて、レンはあくびをしつつピアノの椅子に腰をおろした。 しかし、ロテールも負けてはいない。ピアノにもたれて言い募る。 「おかしいもおかしくないもあるもんか。レンの古い知り合いの屋敷に、偶然にもレンと同じ顔した奴を描いた絵があった? そんなご都合主義な偶然、起こるわけないだろ」 ロテールの言い分もある意味もっともなので、レンは苦笑しつつも頷いてしまった。 ピアノの蓋を開けて、鍵盤を覆う布をそっと取り去る。キーを叩くと、ポーンと澄んだ音が響いた。 長い間調律はされていないようだったが、曲にならないほど音が狂っているわけでもなさそうだった。 ひとつひとつキーを叩きながら、音が出ることを確認する。その指の動きを目で追っているロテールに向かって、レンは呆れたように笑いかけてみせた。 「妙なところで頑固だね、君は。そんなに言うなら、もう一度よく絵を見てごらんよ。よーく、ね。ちゃんと違うところがあるだろう?」 「違うところ?」 「瞳の色だよ」 さらりと言い切ったレンは、次のキーへと指を動かす。 本来であれば「ラ」の音を響かせるはずの鍵盤は、空気を切るような乾いた音をたてた。
レンの瞳は漆黒。だがそれは、片目だけにすぎない。 いつもは長い前髪に隠されている左の瞳は、淡い紫色をしていた。 両の瞳の色が、それぞれ違う。それは、自然には起こり得ないことだった。 ロテールはふとしたことから、その事実を知った。 オッドアイにまつわるさまざまな伝承やおとぎ話は知っている。だがそれは知識として蓄えているだけで、それを信じようと思ったことなどなかった。そもそも、神すら信じていなかった。 まったくの偶然からレンの左の瞳を見てしまったとき、信じようともしていなかった迷信が記憶のすみをかすめなかった、と言えば嘘になる。 それでも、綺麗だと思った。隠しておくのがもったいないと思った。そのときはやはり根も葉もない伝承など判断の足しにもならないと納得したものだが、己の心を自覚した今になって考えてみると、本当の理由がわかったような気がした。 別に迷信を信じていないから、恐怖もなにも感じなかったわけではない。それがレンの瞳だったから、その事実以外の些細なことはどうでもよかったのだ。ただ、それだけだった。 だから普通の感覚を持つ人間が彼の色違いの瞳を見た場合、どういう反応が返ってくるかは想像がつく。そしてレン自身が決して表面には出さなくとも、色の違う瞳のことを気にしていることも知っていた。 だから今まで、敢えてそれには触れずにきていた。左の瞳など、まるで存在しないかのように接していた。 そしてそれゆえに見落としていたのだ。 花びらの雨に包まれて微笑む絵の中の青年の瞳が、右も左も漆黒であることに。 「……すまない」 「どうして謝るのかな? 何か悪戯でもしてきたのかい?」 レンはいつもと変わらない、優しい微笑を浮かべた。 静かに首を振るロテールの耳に、右手だけで奏でるピアノのメロディが流れ込んでくる。 調律をしていないピアノの音は、少しとはいえ本来の音からはずれる。音が鳴らないキーもある。それでもなめらかな指の動きが生み出す旋律は、ロテールも聞いたことがあるものだった。 右手を伸ばして、記憶をたどりながら左手で担当すべきキーを叩く。即興の連弾となったその曲は、微妙に音がずれところどころ音が抜けてはいたが、遥か昔に聞いた子守歌に聞こえた。
「ふふ……俺は、君とその女の子のほうが似てると思うな」 「あ、の、な。俺は男だ」 「ちゃんと最後まで聞いてほしいね。髪と瞳の色が、だよ」
何気ないレンの一言は、すぐに忘却の淵へと追いやられた。
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屋敷の中に夕陽が射し込む頃、レンはふたたび色あせた絵画の前に立っていた。 絵を飾る額縁に触れるように、そっと手を伸ばす。 その手にかき消されるように、額縁が消え去った。額縁があった場所にあらわれたのは、先ほどのものより細い、シンプルな飾り枠。 枠には、何か文字が彫り込まれていた。美しい筆記体で彫り込まれたその文字は、枠全体に施された繊細な彫刻と調和し、引き立てあっていた。 掘られた文字は、古い書体とはいえアルバレアで使われている文字である。ある程度の教養があれば、誰でも読めるものだった。そう、昼過ぎには王都へと出発した、ヴォルト伯でも。 その文字は、こう綴っている。
『レン・ムワヴィアとその妹・初代聖乙女エリシエル』、と。
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The End