Day by Day
「ひーちゃん、もうすぐバレンタインだよな?」 教科書が入っているとは思えない鞄を持って近づいてきた京一が言った台詞は、かなり唐突だった。 高校3年も終わりの2月なんて、学校に出てきている生徒はかなり少ない。のんびりしているのは、すでに推薦が決まっている者や就職組くらいなものだ。 時期のわりにはのどかな雰囲気が漂っている放課後の教室のど真ん中で、龍麻はつい目を瞬かせる。 「……そーいえばそうだったっけ。縁がないから忘れてた」 正確には縁がないわけではなく、興味がないだけだったのだが。 基本的に察しが良く細かいところにも気が付く龍麻ではあるが、恋愛沙汰に関してはとんでもなく鈍いところがある。別に硬派というわけでもなにか深淵な理由があるわけでもなく、単に恋愛に関する興味が希薄なのでそこまで思い至らないだけだ。あまり、胸を張って言えるような理由でもない。 そんな龍麻といわゆる「恋愛関係」にあるはずの京一にしてみれば、こういった龍麻の態度に救われている部分もないこともないが、どちらかというと余計に苦労が増える比率のほうが高い。期待は空振りに終わることも多いし、より深いドツボにはまってしまうことも少なくないわけだ。しかも龍麻がわざとやっているのか、それとも無意識にやっているのか判別しがいところが、また始末に負えない。 今日も、バレンタイン当日に入試とか可哀想な境遇の奴らも少なくないんだろうなあ、なんてまったく関係ないことを考えはじめた龍麻の目の前で、京一はアテが外れたような予想通りの反応に納得したような、ある種複雑な表情を覗かせた。 だがそれは一瞬のことで、すぐにまた得意げな笑顔を浮かべてみせる。 「というわけで、俺と勝負しようぜ」 「……へ?」 次いで飛び出してきた台詞は先ほどとは比較にならないくらいまた唐突なもので、龍麻は帰り支度をしていた手を思わず止めて、京一の顔をまじまじと見つめてしまった。 そして、頭の中を疑問符が飛び交う状態でありながらも、冷静に一言。 「……京一、目的語を省略して会話を成立させよう、なんて百年早いんだよ」 「うわ、説明すっから、そーゆー凄みのある顔するなって……」 |
「……あ、よーするに、いくつバレンタインのチョコをもらえるか勝負しようってことか」 最初からちゃんと説明させて、ようやく龍麻は京一が何を言いたかったのかを理解したらしい。 ただ納得はしたものの、なんでまた京一がいきなりそんなことを言い出したのかまでには思い至らなかったらしく、今度は単純に不思議そうな表情で京一を見上げた。 「で、なんでまたそんなこと?」 ところが、いつもであれば得意げにわけのわからない理由を述べるはずの京一の様子が、どうもいつもと違う。 「いやァ……なんとなく」 まるでごまかすかのように、そう呟く。……いまひとつ、歯切れが悪い。 なにか他に言いたいことがあるよう気もするが、それに気づいて欲しくなさそうにも見える。京一がごまかすつもりならまあそれでいいかと、龍麻は軽く肩をすくめた。 「なんとなくって……まあ、そりゃチョコをひとつももらえないバレンタインってのもそれなりにさみしいけどさ……」 女好きの京一にしてみれば、きっと重大なイベントなのだろう。とりあえずそう適当に思っておくことにして、龍麻はそのよくわからない勝負に付き合ってやることに決めた。 「ま、いいけど。で、勝ったら何かもらえるわけ?」 勝負というからには当然、勝てばなんらかの見返りがあるはずだ。 とはいえあまり勝負そのものにこだわりがあるわけではないので、聞いてみたのはもののついでだったりする。別に勝っても負けてもよかったし、それにお互いひとつももらえず勝負にならない可能性もないとは言い切れない。 それはもしかして負けるより寂しいかもとこっそり呟いた龍麻の心中を知ってか知らずか、京一は一瞬悩んで(もしくは悩むフリをして)から楽しそうに目を輝かせた。 「えーと……負けたら相手の言うことなんでも聞くってのは? 一日だけ」 「……なんだそりゃ。いっつもそんなんばっかだな」 今までにも何度か、龍麻と京一は意味があるのかないのかわからない賭け勝負をやったことがある。もっぱらテストの成績や旧校舎での倒数を競うといった比較的前向きな内容であまり悪影響が出たことはないが、それらの報償も「勝った方の言うことを一日だけなんでも聞く」になることが多い。 今回もいつもと同じでは、芸がない。そう言って却下しようとしたら、京一が思いっきりふてくされた顔をした。 「いーじゃねェかよ。どーせ俺が勝ったことなんてほとんどねェだろ」 「……そーいえばそーか」 最初に面白がって提案したのは龍麻だったが、それ以来なにかにつけて持ち出してくるのは京一だ。別にそれだけ気に入っていたというわけではなく、単に勝ったことがなくて悔しいだけだったらしい。 懲りない奴、と一瞬そんな感想が龍麻の頭の隅をよぎったものの、よくよく考えたら普通は誰でもそうだと思い直した。 「ま、いーか。それで手を打ってやるよ」 「よーしッ、忘れんなよッ!」 なんでもいいや、と思っているのがありありとわかる龍麻の態度が若干不満なのか、京一が何かを言いたそうにしつつもにやりと笑う。 龍麻はそんな京一へとちらりと視線を投げて、ひらひらと片手を振った。 「はいはい、いくつもらえるか楽しみだよ……んじゃ、俺、帰るから」 「え〜ッ? 待っててくれないのかよッ?」 「今日は用事があるからダメ。がんばって補習してきな、卒業できなくなったら困るだろ?」 そもそも、こんな卒業間近まで補習の世話にならないと単位が危ない、ということ自体同情の余地なし、と。 懇願の視線を隙のない笑顔で叩き落として、龍麻は楽しそうにかつあっさりと、京一にとどめを刺した。 |
なんでこんなことしてるんだろうなと心の中で呟きながら、今日何度目かの謝罪の言葉を口にする。下級生らしい女の子は泣きそうな顔でちょっと笑って、それでもぺこりとおじぎをしてから走り去っていった。 バレンタイン・デー当日は、呆れるほどの晴天に恵まれたようだ。風が強くないので陽の光が届くところにいればそれなりに暖かいのだが、建物の陰に入ってしまうとかなり寒い。しかも建物の脇だと風も強くなるので、コートを着ていない状態ではあまり長居したくない場所でもある。 体育館裏に呼び出されたのはこれが最初というわけではないが、ここがこんなに居心地の悪い場所だったなんて、龍麻は初めて知った。そうやって考えれば、恋愛沙汰よりも喧嘩のほうがいくらかはわかりやすいし、後味も悪くない。 「……おかしいなあ、今まではこんなことなかったぞ……」 樹の幹に体重を預けて、一言。 義理チョコだとわかっていればなんの抵抗もなく貰えるのだが、どうにも「一世一代の勇気を出して告白します」という顔で呼び出されるとダメらしい。どっちにしろ龍麻にすでに「好きな人」がいる以上、告白つきの本命チョコを貰ってしまったらよけい事態がややこしくなるだけなのは確かなのだが。 「……京一にバレないようにしとこうっと……」 チョコの数を勝負しているというのに、そのチョコを断ってしまっているのがバレたら、何を言われるかわからない。 でも結局チョコを断ってしまっている最大の理由は京一にあるわけで、それで龍麻は先刻からなんとも複雑な気分に陥っているわけだ。去年までだったらきっと本命チョコでも遠慮なく貰ってただろうなと思うと、なんとなく損をした気分になる。 しかもこの調子だと、おそらく勝負には負けるだろう。先ほど教室を出てくる前にうかがってみた京一の表情は、じつに得意げだった。 「あいつ、下級生に人気あるからなぁ……」 同級生相手だとどうにも評価が低いみたいだけど、小さく笑う。評価は低くても、とりあえず人気はあるほうなんじゃないか、と思わないでもない。 「……まぁ、たまには京一に勝たせてやってもいいかぁ……」 釣った魚も、たまには餌をやっとかないと逃げるって言うし。 もともと勝つ気はまったくなかったくせにそう呟いて身体を起こすと、龍麻は用事を済ませるために校舎へと足を向けた。 |
「あれ……いまんとこ同数?」 「ちぇッ、今回こそは勝てたと思ったのによォ」 「ま、しょーがないな。引き分けってことで」 放課後になってそれぞれ女の子から貰ったチョコレートの数を数えてみたら、なんとぴったり同じという結果が出た。 今日は補習もないという京一の後ろについて歩きながら、龍麻が小さく笑う。本命チョコを断ってしまったのは、どうやら無駄な努力ではなかったらしい。 だが先ほどちらりと京一が貰ったらしいチョコを見た感じでは、義理チョコレベルのものばかりだった。……おそらく京一も龍麻と同様に、本命のチョコレートは受け取れなかったのだろう。 本気で勝ちたいんだったらそれもちゃんと貰っとけよと思う一方、貰えないところがいかにも京一らしいと思うとやはり笑いがこみ上げてくる。が、龍麻がそんなことを考えていると知ったら、京一はたぶん泣きたい気分に陥るに違いない。 「あ〜〜〜ッ、なんかむちゃくちゃ悔しいぞッ!」 「いいじゃないか。負けたわけじゃないんだから」 昇降口へ向かう階段を降りる間中ブツブツと文句を言い続ける京一に、龍麻はいつもの調子でフォローになっていないフォローを入れる。当然のことながら京一が納得するわけもなく、勢い良く龍麻のほうを振り返ろうとして、あやうく昇降口の方から駆けてくる女の子にぶつかりそうになった。 「うわッ、あぶねェ……ひーちゃんは勝ち慣れてッからそーゆーことが言えんだよッ!」 「前向いて歩けよ、京一。今度は靴箱にぶつかるぞ……いやもう、勝負運の悪いだれかさんのおかげで」 蓋のついた靴箱から外靴を取りだしつつ、龍麻がにっこりと笑顔を作った。 ……龍麻に対して京一が一瞬殺意に似た感情を抱いたとしても、きっと誰も理不尽な怒りだとは言わないだろう。それでも京一は盛大なため息をつくと、出来もしない捨てぜりふを呟きつつ靴箱の蓋に手をかけた。 「はぁ……犯したろかコイツ……」 「やれるもんならやってみな」 「・・・・・・・・」 「……? 京一?」 反論がないどころか、ぴくりとも動かなくなってしまった京一を不審に思って、龍麻が京一の手元を覗き込む。……そして、少しだけ意外そうに目を見はった。 京一の靴の上に、綺麗なラッピングに包まれたチョコレートがひとつ。 特別大きいものではないが、どう見ても義理で置いていったものとは思えない。そもそも、義理チョコをこっそり靴の上に置いていくような人もいない。 カードもなにもついていないが、おそらくこれは、誰かが京一に当てた本命のバレンタイン・チョコレート。 まるで自分がそれを貰ったかのように楽しそうな笑顔を見せると、龍麻は微動だにしない京一の耳元に顔を寄せて、悪戯っぽく囁く。 「……へぇ……京一の、勝ち?」 「……そーかも……」 「お〜。初勝利おめでと〜、京一」 本人がいちばん信じられないのか下足入れの蓋を開けたまま固まる京一の肩をぽんと叩いて、龍麻がまるで人ごとのように軽く祝辞を述べた。 |
「で、なんでやりたいことが、俺んちでチョコ食いたい、なわけ?」 呆れた表情で龍麻がブラックのコーヒーが入ったマグカップを渡すと、京一はじつに複雑そうな顔をした。 「いいじゃねェかよ、追求すんな」 本当にやりたいこと、龍麻にやって欲しいことが別にありそうなのに、この勝負の話が勃発してからはずっとこんな調子だ。追求するのも面倒なので放っておいた龍麻だが、元来ものごとをはっきりさせないままにしておけるタイプではない。これ以上放っておいても自分の精神衛生上良くないと勝手に判断すると、自分用のマグカップを派手な音を立ててテーブルへと置いた。 「追求するよ。ここんとこ京一、なんか妙に歯切れが悪いし」 「いや……だってよォ」 一方そう言われてしまった京一は、言いにくいものは言いにくいんだ、と心の中でひとりごちる。ためらわずに言える勇気と度胸があれば、いちいち遠回しに自分でもよくわからないことを言ったりやったりする必要なんてない。 大体、今日は俺が「ひーちゃんになんでもやってもらえる日」だったんじゃねェのかと思いはしたものの、それを口に出せないところが京一の弱いところだろう。 「だってもあさってもない。言うこと聞いてやるんだから、それくらい吐け」 「そ〜ゆ〜問題かよ、オイ……」 「だって、勝ったわりには嬉しそうじゃないし」 「……う」 「なんでも言うこと聞かせる権利を奪取したわりには、まったく活用してないし」 「………ぐ」 「ほれほれ、なんか言えるもんなら言ってみな?」 ガラステーブルの上に山と積まれたチョコレートの包装をばりばりと破き、龍麻は誰がくれたのかは覚えてはいないウイスキーボンボンを手に取る。 そのままぽんとひとつ口の中に放り込んだら、京一がそっぽを向いてもごもごと喋りだした。 「……勝ち負けなんて、別にどーでもよかったんだよ」 「?」 「単に、ひーちゃんにバレンタインだってことを知ってほしかっただけだったんだからよッ! 悪いか!」 「……へ?」 ヤケクソのような京一の叫びについチョコレートをかみ砕いてしまった龍麻の口の中に、芳醇だか苦いのかよくわからないウイスキーの味が広がる。ウイスキーボンボンなんだから当たり前なのだが、予期しなかった出来事についむせてしまいそうになった。 それに気づいたのか気づかなかったのか、京一はそっぽを向いたままやけくそついでに言葉をつなぐ。とりあえず、覚悟はできたらしい。 「……だからァ、ひーちゃんからチョコ貰いたかっただけなんだよッッ!」 いちばん言いたかったことをようやく言ってというか言わされて、京一は手にしていたコーヒーを一気に飲み干す。ただ一気に飲むにはやや熱かったらしく、慌てて舌を出した。 そんな情景を見て、龍麻は。 「……京一、お前、バカ?」 「どーせバカだよッ、ほっといてくれ」 「ホント、救いようのないバカだな。今さらだけど」 呆れたようにそう言うと、ウイスキーボンボンの包装を剥がしてもうひとつ口に入れて。 「悪かったなあッ…………!?」 そのまま、京一に口づけた。 |
口の中に、ウイスキーの苦みとチョコレートの甘さが広がる。 チョコレートと一緒に侵入してきた龍麻の舌は、勝手気ままに京一の口の中を楽しんでいつのまにか逃げて行った。唐突な龍麻の行動に唖然としていたはずの京一だったが、逃げられてから無意識のうちにちゃんと龍麻の舌に応えていた自分に気づく。 驚愕していてもチャンスは逃さないところはさすがだ、と自分で自分に感心しながらも京一は慌てて、何事もなかったかのように元の場所へと戻ろうとする龍麻の腕を掴んだ。 「ち、ちょっと待てひーちゃん、今のは一体ナンなんだッ!?」 「キス」 必死の思いで問いかけたのに、龍麻から返ってきた答えはこれ以上はないくらいあっさりとしたもので。 ついつい脱力しそうになって、掴んだ龍麻の腕に体重をかける。龍麻は「重い」と文句を呟きながらも、振りほどこうとはしなかった。 とりあえずそれに安心したのか、京一は龍麻の腕に両手でしがみついたまま上を見上げると情けない声を出す。 「……そうじゃなくて」 そんな京一の慌てた反応に満足したのか、龍麻がくすりと笑みをもらした。 腕にしがみつく京一の頭をなだめるようにぽんぽんと軽く叩くと、上体を傾けて京一へと顔を近づける。そうやって京一と視線を合わせると、悪戯が成功した時のようなにこやかな笑顔をさらした。 「俺からチョコが欲しかったんだろ? とりあえずもらいもので悪いとは思ったけど、口移しだったら少しはプレミアつくかな、と」 「そりゃ……それは嬉しい。むっちゃくちゃ嬉しい。想像もしてなかったくらい、嬉しい」 自分で何を言っているのかよくわかっていないくらい、舞い上がっている。それは、事実だ。 何よりも、一笑に伏されておしまいと思っていたのに、ちゃんと望むものをくれようとした龍麻の心が嬉しい。しかも。 「今度からは、最初から素直に欲しいって言えよ」 日頃の龍麻だったら逆立ちしたって言ってくれないような台詞まで飛び出してきて、今度こそ京一の思考回路が凍結する。……免疫がなさすぎて、ついていけなくなったらしい。 こういう待遇を望んでいたはずなのに、実際にそういう応対をされると慣れなさすぎて固まってしまう。そんな不幸体質を恨めしく思いつつも、もしかして自分はものすごく幸せ者なのかもしれないと考え直す京一の横顔にちらりと視線を投げて、龍麻が柔らかく微笑んだ。 そして、京一の顔をもう一度覗き込んで、小さく呟く。 「まあ……このチョコ全部食いきったら、もしかしていいことあるかもな」 意味がわからずに目を白黒させる京一の表情を楽しげに見やると龍麻は瞳を悪戯っぽくひらめかせて、もう一度自分からキスをした。
−終− |
− after −
「聞いたわよォ」 「……遠野?」 「このアン子さんをなめちゃーいけないわよ、龍麻君。下級生の女の子使いっぱにして、一体なにやってたのかなァ? さあ、吐けっっ!」 「……あの子は、昔こっちにいた頃からの幼なじみだよ。別に大した用事があったわけじゃ……」 「その幼なじみに何を頼んでたのかなァ? ちゃーんと聞いてきたんですからね、言い逃れしてもムダよムダ」 「……どっから聞き出したんだよ、そんなどーでもいい話」 「そりゃ、龍麻君の隠し撮り写真と引き替えに……あわわわわ」 「ったく……そのうちモデル料請求するぞ」 「あと少しじゃないのよッ、大目に見なさいよ。……って、そんな話しにきたんじゃないのよ」 「まあいいじゃない、あんまり追求しないでおいてよ」 「そう言われると追求したくなるのッ!」 「あ〜、もう……ちょっと、届けものを頼んだだけだよ」 「……京一の靴入れまで?」 「……知ってるなら聞かないでくれる?」 「……ホントかどうか確かめたかったんじゃないのよ。……ホントだとは思わなかったけど」 「とりあえず……他言無用にしといてくれよ」 「どーせ信じてもらえそうにないから、誰にも言わないわよ。にしても……龍麻君、もしかして趣味悪い? あいつ、このこと知ってるの?」 「俺からチョコもらいたかったって駄々こねてたくらいだから、まだ気づいてないんじゃないかな」 「……あ、そ。なんかバカらし……」 |