桜 花
護りたい、という想いにも種類があることを知ったのは、そう昔の話ではないような気がする。
■
「……ふ〜ん、なるほどね」
古めかしい木製の机に頬杖をついていた緋勇龍麻は、視界の隅にひっかかった光景を見るともなしに見てしまってから、わざとらしく声を出して納得してみせた。
そのいかにも含みがありそうな声色に、丸薬の在庫をひっくり返していた如月が振り返る。龍麻がこういう態度に出たときは、下手に無視したりはぐらかしたりしようとするだけ無駄だ。あとで数倍になった災厄がふりかかってくるよりは、ここで潔く受けとめておいたほうが精神的に楽である。
一応商品である古びた応接セットでくつろいでいた龍麻は、自分の声に振り向いた骨董屋店主・如月翡翠を満足げに眺めると、おもむろに奥を指差した。
「要するに、俺はダシにされたわけだ」
「は?」
「おかしいと思ったんだよな。確かにあいつって俺にはけっこう過保護だけど、京一もいるのにくっついてくるなんて何があったんだろう、とかちょっと真剣に考えちゃったりしたんだけど。そうか、そういうわけか」
「……龍麻?」
一見如月に向かって話しかけているようで、どうやら自己完結しているらしい。龍麻が何を言いたいのかまったく理解できなかった如月は、目を瞬かせて首を傾げた。
そんな如月の反応を見た龍麻は、一瞬だけ天井を振り仰いでため息をつく。本当に、この如月という人物はさといのかそれとも抜けているのか、判別しがたい。日頃は気づいてほしくないようなことまで鋭敏に探り当てるくせに、こういったときは口に出して言っても思い当たらないとくる。
そんなところが面白いんだけどと心の中で呟いて、龍麻はにっこりと笑ってみせた。
「紅葉だよ、紅葉。別に、すぐにバレる言い訳しなくてもいいのにな。まあ、京一は気づいてないと思うけどさ」
「紅……葉? 壬生かい?」
龍麻の台詞に、そういえば、と如月はあたりを見回す。確か、龍麻と共に今日この店に来たのは、蓬莱寺京一と壬生紅葉のふたり。めずらしい取り合わせだと思ってはいたが、よくよく見ればそのふたりの姿がない。
「あれ、壬生もだけど……蓬莱寺の姿も見えないね?」
「京一なら、ここで熟睡中だよ」
そう言って、龍麻はため息まじりに自分の膝の上を指差す。如月のいる場所からは机や積み上げられた商品の影になって見えないが、どうやらそこにいるらしい。
少し立つ位置をずらしてみたら、たしかに見えた。京一は龍麻の膝を枕に、すっかり昼寝モードに入っているようである。
「これは……ちょっとやそっとじゃ起きそうにないね」
「だろ? 蹴ったくらいじゃ起きないかもな。やってみようか」
「たぶん……君が思いっきり蹴り飛ばしたら、一生目が醒めない可能性が……」
「いくらなんでもそこまでしないって、仮にも恋人なのに」
「はあ、なるほどね……は? 恋人?」
あまりにもあっさりと言われたので、あやうく聞き逃すところだった。
とりあえず違和感なく耳から抜けていきそうな龍麻の台詞をとっつかまえ、意味を把握する。きちんと理解したらしたで、今度は積み上げてあった箱を崩しそうになった。
「恋人って……その、君の?」
「そう、俺の。あれ、翡翠も知らなかった?」
「残念ながら、初耳だよ」
正確には、京一が龍麻しか見ていないことは知っていたが、どうやら相思相愛だったらしいことは知らなかった、というところだろうか。
もっとも京一が龍麻に片思いをしているということは誰でも知っていることなので、別に如月が恋愛事情に敏感、というわけではない。ただ美里葵あたりがさほど機嫌が悪くないところをみると、賢明にもこのふたりは想いを確かめあったことを隠し通してきたというわけだ。
それが、賢い選択だろう。そう、せめて、高校を卒業するまでは。
ようやく目当ての丸薬を探し当てた如月は、なぜ最後の戦いも終わったというのに龍麻がこんなものを必要としている理由がなんとなくわかったような気がした。
「それで……太精神丹なのかい? 君も苦労するね……」
「京一がいけないんだよな。放っておけばいいのに、いちいち美里につっかかるから……仲裁するたびに、寿命削ってる気分だっての」
「まあ……不安なんだろうね。蓬莱寺の気持ちも、わからないでもないよ」
とはいえ、如月の顔には呆れた笑みしか浮かばない。首を振りつつ懐紙に包んだ丸薬を龍麻に渡すと、彼は如月の顔を下から見上げてクスクスと笑った。
「へぇ、翡翠も? 紅葉を誰かに取られたら、とか思うと不安になる?」
俺に秘密にしておこうなんて百年早いんだよ、とつけ加えられて。
それは如月にとってかなり唐突で、しかも即座にはごまかしも言い逃れもできない程度には、驚愕を呼び起こした。
■
「なんというか……龍麻らしいね」
一緒に来たはずの龍麻と京一を置き去りにして早々に如月骨董品店の奥に上がり込んでいた壬生は、目の前に湯飲みを置いた如月の憮然とした表情を見てつい笑みをこぼした。
あの後、龍麻は寝こける京一をかなり強引にたたき起こして、楽しそうに笑いながら帰っていった。あの調子だと、買っていった丸薬を最初に使うことになるのは、おそらく京一だろう。
「ああ、じつに龍麻らしい。気づいてからかっていくだけじゃなくて、わざわざ自分と京一のことをばらしていくあたりが、特にな」
結局、いいように龍麻に遊ばれたようなもので、如月はどうもそれが割り切れずに憮然としているらしかった。
「自分自身のことには無頓着なくせに、こんなところにばかりは気が回る。損ばかりするタイプだな」
言わなければどうせ気づけなかったネタをわざわざ如月に提供して、「内緒だぞ、お互いに」と念を押していった龍麻。自分の秘密を相手に渡すことで、秘密を他人に握られた閉塞感を半減させようという気遣いだということはよくわかった。
護るべき相手にこうやって気遣われるのは、如月にとってあまり有り難いことではない。護るはずの相手に、逆に護られているような錯覚に陥るからだ。
確かに龍麻の力も心も強大で、たぶん誰よりも強い。きっと、本当は護る必要なんてないのだろう。それでも、彼には「護りたい」と思わせるなにかがある。きっと、それをカリスマと呼ぶのだろう。
「だからこそ、皆が龍麻を護ろうとするんでしょうね。僕も、彼のことは放っておけませんよ、どうしてか……」
壬生も、如月と同じ答えにたどり着いたようだった。学生服に包まれた肩を器用にすくめてみせる。
病気の母親以外に何も持っていなかった壬生にとって、龍麻は如月とは違う意味で大切な存在だ。今までまわりにいる人々を「人間」だと認識はしていても「人」とは思っていなかったはずなのに、彼は最初から「人」だった。はじめは敵だったはずなのに気が付けば護るべき相手になっていて、そして「仲間」という今まではまったく縁のなかったものをくれた。
最初は戸惑いしか感じなかった壬生に、指針を与えてくれたのも龍麻だ。その終着点に、如月がいる。
だから、確かに龍麻は大切な存在ではあるけれど。
「龍麻は、この命を賭けてでも護りたい存在だ。龍麻のためだったら、命を失っても惜しくはないだろうな」
どこか穏やかな表情を浮かべて如月がそう言ったときには、やはり心の一部を壊されたような、そんな気がして。
「僕はあなたがいれば他になにもいらないのに……如月さんは、そうじゃないんですね」
意識しないままに口からすべり出た言葉は、少しだけ、どこかが凍っていた。
■
最初は偶然。2度目は必然。3度目になれば、それは運命。
運命なんて言葉を信じたことはないけど、もしかしたら、今だけは信じてもいいかもしれない。
最初は、本当に偶然だった。壬生が仕事帰りに雨に降られて立ち往生していたところに、たまたま如月が通りがかっただけだ。
まずは敵として、それ以降は仲間として何度か顔を合わせたことがある程度だったが、如月の記憶力はかなりいい方だった。なのでなりゆき上傘をすすめて、すげなく断られた。ただ、それだけのこと。
2度目は、よくわからない。1度目と同じような雨の日に、同じ場所で、同じような状況で出会った。ただこの時は、壬生は如月の傘を半分借りた。戦いの中で、少しは信頼されたのだろうか。
3度目は、もしかしたら運命。やはり同じようなシチュエーションだったが、オマケがついていた。雨を避けて庇の下にたたずむ壬生の足下には、古びたダンボール。そして彼の手の中には、寒さに震える小さな仔猫。
「うちじゃ飼えないんです、可哀想だけど。マンションですから……」
「僕でよかったら、引き取るよ。あの家にひとりというのも、少々寂しくてね」
その日から、壬生はたびたび如月の家に来るようになる。
お互いがお互いにとって特別な存在になるのに、さほど時間はかからなかった。
仔猫は今も、如月家の縁側で丸くなって眠っている。
■
「……やっぱり、思ったよりも短絡思考だな、君は」
表情は変わらないまでも壬生の声色の変化を聞き取ったのか、如月がふわりと優しい笑みを見せた。
如月の顔はなまじ綺麗に整っているせいで、表情を消すと意外なほどに冷たくなる。常日頃から意味なく笑顔を振りまく性格ではないので、結局ほとんどの人は彼の人形のように整った、あまり起伏のない表情にしかお目にかかることはない。
だが、微笑むと途端に雰囲気が柔らかくなる。それは舞い散る桜の花びらのようで、派手ではなくとも春を感じさせる暖かなものだった。
「……悪かったですね」
自分よりも大切なものがあると言外に告げられ、しかも「短絡思考」とまで言われても拗ねることしかできない自分を心の中で冷静に罵倒しながら、それでも壬生はつい如月の笑顔に見とれてしまう。
それからまたはたと我に返って、見とれている状況じゃないだろうと壬生が自分自身に言い聞かせている間に、如月はどこからか細長い羊羹の箱を持ってくると卓袱台の上に置いていた。
「龍麻……黄龍の器を護るのは、四神の一角を担う僕の使命だ。僕は、東京を護るという使命から逃れることはできない。だから、もし命を賭けてしか彼を護れないのであれば、この命は惜しくないよ。……だけどね」
白い手が、包丁で羊羹を切り分ける。上品な小豆色をした小片が、和紙でできた小皿の上に乗せられた。
「だけど……君を護るためには、死ぬわけにはいかない。君の隣を、君と一緒に歩いていかなければ、君は護れない。……違うかい?」
「如月さん……」
「龍麻は強いからね、遺されても生きていける。それに、彼が一緒に歩いていきたい人間は、他にいる。でも……君は違うだろう? 強そうにみえるけど、けっこう脆い部分があるからね」
小皿の上に、羊羹の小片が2つずつ。和紙でできた小皿は2つ。卓袱台の上に乗る湯飲みも2つ。
何も言わなくても、必ず自分の分も用意されている。そんな些細なことでも、壬生にとっては心があたたかくなる大切な出来事だ。
「如月さんがいれば……僕は強くなれますよ」
包丁を片づけたのを見届けてから、壬生は如月の頬へと手を伸ばす。伸ばされたその手を片手でそっと包み込んで、如月はくすりと笑った。
「……なら、僕はますます死ぬわけにはいかないな」
「ええ、死なせたりしません。あなたが死ぬのは、僕の前から消えるときだけですよ……」
「怖いな」
「何言ってるんですか。僕を拾ったのは、あなただ。最後まで、責任を持って面倒を見てもらわないとね……」
頷くかわりに、如月は頬を伝う壬生の手を剥がすと、その甲に軽く口づけした。
■
寒さも孤独も知らないような顔をして、たったひとりで母親のために生きてきた猫。
気まぐれで手を伸ばしたときはかみついてきたのに、気が付いたらすっかり懐かれてしまって。
それでも如月本人がその猫を気に入ってしまった以上、どうせ追い出すこともできなければ、放っておくこともできないのだ。
「桜が咲いたら、ここで住み込みのアルバイトしてもいいですか?」
「別に構わないよ。どうせ、部屋は余ってるしね」
「バイト料は、如月さんでいいですから」
「……あのね」
■
桜の花が咲くまでは、まだ二月ほど残っている。
−終−