+ ■ 月 の 夜 ■ +

 


 


 ルルノイエは、獣の紋章と共に崩壊した。
 ずっと探し続けた幼なじみの姿は、結局最後まで見つけることができなかった。目にすることができたのは、玉座にかけられたジョウイ・ブライトの衣装だけ。それを身に纏った親友の姿を、少年は何度か見たことがある。グリンヒルで。ミューズで。
 見つけたのは、抜け殻だけ。少年が探していたのは、そんなものじゃない。
 ハイランド皇王としてのジョウイ・ブライトではなく。少年の傍らにいつでもいた、親友のジョウイを見つけたかったのに。

 彼がいたはずのルルノイエは、ハイランド王国と共に崩れさってしまった。

 

 

 すべてが終わった夜、寝付けずにすっかり目が冴えてしまったカイリは、月の光を浴びるために屋上へと足を運んだ。
 深夜にこっそり屋上へと上るのは、これで何度目だろうか。  カイリにとって屋上はけっこうお気に入りの場所で、特に用事がなくても何度となく訪れてしまうところだ。
 昼間、デュナン湖のほとりに建つこの城の屋上に立てば、ジョウストン都市同盟はもちろん遠くハイランドまでを一望できる。夜はさすがに地上を見ることはできないが、夜空を彩る星と月を見ようと思えば、これ以上の特等席はないだろう。曇っていても、街や村にともる灯りがぼんやりと光をくれる。
 危険だからと屋上への道を塞ぐ見張りの兵士を拝み倒して───というよりは泣き落として───穏便に望みを叶えたカイリは、大した意味もなくここへきた回数を数えようとして、ふとその瞳を瞬かせた。
 誰もいないはずの屋根の上で、バンダナが風にそよいでいる。
「………アルセノールさん?」
 ……思いがけない先客がいたようだ。
 一方名前を呼ばれた当人も、こんな時間のこんな場所に自分以外の来客があるなんて想像していなかったらしい。目をぱちくりとさせて声のした方へと向き直ると、一瞬だけほっとしたような驚いたような表情を見せた。
 そして、自分の名前を呼んだ声がこの城の主である少年のものだと認めると。
 ふわりと柔らかい笑顔をかすかに覗かせて、トラン解放戦争の英雄は、カイリに向かって手をひらひらと振る。
「どうしたの? こんなとこいたら、風邪ひくよ」
 今現在そこにいる人がそんなことを言っても、まったく説得力がない。
 しかもその場を動こうともせず、また紺碧の夜空へと視線を戻す。人の心配よりも自分自身のことのほうにもう少し意識を向けたほうがいいんじゃないかと心の中でため息をついて、カイリは屋根の上へと続くはしごをよじ登った。
「……アルセノールさんこそ、風邪ひいちゃうよ」
「そうだね。……でも、最後にここから月を見ておこうと思って」
 日頃は口数も少なく必要最低限のことしか話そうとしないアルセノールも、カイリと二人だけのときは少し饒舌になる。
 ちょっと目を離すとすぐにグレッグミンスターへと帰ってしまうアルセノールをつかまえて友好を深めるのは、決して楽なことではない。だが、どうやら根本的にカイリには甘いらしいアルセノールと意味のない雑談ができるようになるまでに、そう時間はかからなかった。
 いろいろと話すようになってわかったことはいくつかあるが、その最たるものはアルセノールの本質は決して無口なわけではない、ということだ。
 大人びていて物静かで、無駄なことを口にしない、落ち着いた少年らしからぬ少年。誰もが彼に対して抱いているそんな印象を当然のことながらカイリも持っていたのだが、実際に言葉を交わすようになって、それが間違った認識であることに気づいた。
 少なくとも、気を許した相手しか側にいない時のアルセノール・マクドールは、ごく普通の少年だった。
 真の紋章の力は、所持者の時を止める。外見上カイリとほとんど年齢が変わらなく見えるアルセノールは、ほんの数歳だけカイリよりも年上で、でも実際の年齢差以上の隔たりは感じられなかったのだ。
「最後……そっか、最後だよね。戦いは、終わったんだ……」  屋根の上をつたって、カイリは無事にアルセノールの隣にたどり着いた。
 そのままそこに座り込むと抱え込んだ膝の上に顎を乗せて、小さく呟く。その聞こえるか聞こえないかの小さな呟きからにじみ出るなにかに、アルセノールはふとカイリの方へと視線を向けた。
 何かに迷っている、幼い横顔。
 たとえどんなことがあろうといつも明るい瞳で前を向いていたカイリが、今まで見せたことのない表情。
 ……そして、アルセノールは気づいた。
 まだ、カイリが本当の目的を果たしていないことに。
「終わったような気がしない?」
 だから、カイリを驚かせないように、優しくそう口にする。
「……うん。終わったはずなのに、なにかが違うんだ。僕たちは勝った。でも……」
「……ジョウイのこと、だね?」
 言いよどむカイリの後を継いだアルセノールの言葉にカイリは一瞬驚いたものの、それからゆっくりとうなずいた。
 カイリには、わからなくなってしまったのだろう。前を見つめ続け、過去にとどまることを知らない少年。
 あまりにもいろいろなことがありすぎて、カイリの心はいちばん大切なことを心の奥に押し込んでしまっわなければならなかった。
 リーダーとしての責任を果たすために、奥へとしまい込んだ個人的な想い。だが、ルルノイエの崩壊とともに解放されるはずだったそれは、空っぽの玉座を見たときに行き場を失った。
 前を見続け、進んできたカイリ。終着点にたどり着いてしまった今、行き場を失って宙に浮いている自分の心が探せなくなっている。
「僕は……どうしたら、いいんだろう」
 力の感じられない、自分自身に向けた頼りなげな呟き。
 弱音を吐くことをよしとせず、常に前を向いて歩んできたカイリの、それが今の本音だった。







「ジョウイは生きてる。そう思う……そう思いたいんだ」
 たとえそれが願望に過ぎなくても、そう思うことで心の平穏を保っている。
 カイリ自身、それはわかっていた。どんな大義名分を掲げても、ハイランドという国を壊滅に追いやったのは自分なのだ。
 そのことに目を瞑ろうとは思わない。きっと、一生忘れないだろう。数え切れないほどの命と血を代償として得た平和を長続きさせることが、たぶん彼にできるいちばんの贖罪だ。
 だが、どうしてもジョウイのことが頭から離れない。元ハイランドの国民でさえもが、今ではジョウイのことを悪者にしている。それを耳にするたび、カイリの頭の中に疑問が浮かぶのだ。
 ジョウイの本当の目的は何だったのだろうか、と。
 ハイランド国内の抵抗は、驚くほど少なかった。ハイランドの民にとって、シュトラールよりも皇王ジョウイ・ブライトのほうが忌むべき存在になっていたせいだろう。そのおかげでよけいな争いをせずにすんだとはいえ、カイリよりもよほど頭の良かったジョウイが知らずにそんな事態を招くとは思えない。
 ジョウイに会ったら聞こうと思っていたのに、カイリにはチャンスすら与えられなかった。純粋に親友であるジョウイに会いたい気持ちと、シュトラールのリーダーとして尋ねたかったハイランド皇王への疑問は、今もまだカイリの心の中でくすぶっている。
 ジョウイの命が消えたとは思いたくない。たとえ自分のわがままでしかないとしても、ジョウイには生きていてほしい。もしジョウイがこの世からいなくなっていたとしたら、それは間違いなく自分のせいだ。たとえ直接手を下したわけではなくても、自分が導いた事態がその結果を生んだことになる。
 後悔はしていない。していないが、もし本当にジョウイが死んでいたとしたら、後悔しないと言い切る自信がない。
 後悔はしたくない。リーダーである自分が後悔してしまったら、自分を信じて力を貸してくれた人々の気持ちを裏切ることになる。
 だから、カイリは祈るような気持ちで自分に言い聞かせるのだ。後悔しないために。ジョウイは、まだ生きていると。
「ジョウイは……ジョウイだけは、失いたくない」
 そして、もうただ一人しかこの世にいない、誰よりも大切な人に会いたいから。

 

 

「そうだね……君には、道がふたつある」
 膝へと顔を埋めたカイリの頭を優しく撫でて、アルセノールは言葉を継ぐ。
 アルセノールにとって、カイリの目の前に立ちはだかった壁は、決して他人事ではない。
 自分の二の舞は踏ませたくない。そう思ったからこそ、今まで彼に力を貸してきた。
 一軍を率いる将として、勝利を得るためには切り捨てなければならないものがたくさんある。失わなくていいものを、失ってしまうときもある。
 アルセノールも、大切なものをいくつも失ってきた。逃げ続けていた荒野で道を示してくれた人を失い、すべてを包んでくれた人を失い、尊敬していた父をこの手にかけ、そして親友を失った。星の奇跡で誰よりも大切な人だけは取り戻すことができたが、あの時の喪失感は絶対に忘れることなんてできない。
 解放軍を束ねる存在となったことを、後悔したことはない。もしもう一度あの時からやり直せるとしても、きっとまた同じ道を辿っただろう。
 だがたとえ後悔はしていなくても、真の紋章と王者の星である天魁星がもたらす力は周囲の運命に亀裂を走らせる。できれば二度と味わいたくない痛みを、何度も経験させる。そして前へ進めなくなるような痛みをその身に受けても、悲しむ間もなく前進しなければならないのだ。……それが、上に立つものとしての務め。そしてその責任感がなければ、きっと一生前に進めなかっただろう。将としての立場が大切なものを奪い、将としての責任がその痛みを忘れさせる。
 すでに、カイリは最愛の義姉ナナミを失った。彼には、もうジョウイしか残っていない。カイリに、ジョウイまで失わせるわけにはいかない。
 奇跡は、望む形で起こるとは限らない。今なら、まだ間に合う。自分のときのように、もう決して動かせない運命しか残っていないということは、ないはずだ。
 ジョウイが生きているなら、可能性はある。運命にあらがえなかったアルセノールにさえもたらされた奇跡が、運命に抵抗しようとしてきたカイリの身には起きないとは考えたくはない。
 3年前の自分と同じような瞳をして、同じような道を歩んできたカイリ。兄のような気持ちで見守っていたくなるのは、決して過保護じゃないと思いたい。
 シュトラールの人々とは違う意味で、アルセノールにとってもまた、カイリは希望なのだ。
 それがたとえ、自己満足に過ぎないのだとしても。
「シュトラールのリーダーとして、この地の行く末を見届ける義務を背負うか。それとも、ジョウイの幼なじみとして彼を探すか。……会えるとは限らない、和解できるとも限らない。でも、ここに留まる限り、彼と会えることはないよ」
 たぶんもう、カイリの心は答えを決めている。ただ、それを探せていないだけだ。
 だからアルセノールは、その答えを引き出す役目を自ら引き受けた。
「自分が何をしたいのか、それをよく考えてごらん。答えは、もう君の中にあるよ」
「……ジョウイに会いたい」
 聞くまでもなく予想していたカイリの答えに、アルセノールは淡い笑みをこぼす。
 それはそうだろう。崩壊しつつあるルルノイエで、脱出を急かす仲間たちの制止も聞かずにジョウイを探そうとしていたのはこのカイリだ。
 極限状態における無意識の行動の方が、心をよく映す。その結果が吉と出るにせよ凶と出るにせよ、今だけは個を優先することがカイリにも許されるだろう。
「だろうね。君にとって、まだこの戦いは終わっていないんだ。……探しに行っておいで、君だけの答えを」
「……僕の、答え……」
 答えのある場所は知っている。それは、ジョウイのいる場所だ。
 呟いたカイリの脳裏に、重なっていたはずの運命が正反対の道へと分かれてきた過程がよみがえる。トトの村のほこら。ハイランドのキャンプ。ミューズ、グリンヒル、一瞬だけ重なりあったロックアックス城。
 そして、はじまりの場所となった天山の峠。
 再会を約束した、崖。
「約束の……場所……」
 はなればなれになってしまったらここに戻ってこようと、約束の印を刻んだ。
 ……そのとおり、ふたりは本当にはなればなれになった。立っている場所だけでなく、もしかしたら心まではなればなれになってしまったのかもしれない。
 だけど。
 ジョウイは、あの場所にいるのではないだろうか?
 ……何をするためかは、今のカイリにはわからないけれど。
「そ……うだ、約束の場所……! ありがとう、アルセノールさん! 道が見えたよ……!」
「カ、カイリ?」
 弾かれたように顔を上げたと思ったら突然抱きついてきたカイリを慌てて受け止めて、アルセノールはぱちぱちと瞳を瞬かせた。
 そんな困惑気味の反応に気づくこともなく、カイリはアルセノールに抱きついたまま口を開く。
「なにが起こっても後悔しないし、絶対に……ジョウイを失ったりしない。それが運命でも、変えてみせる」
 強固な意志が宿ったその言葉に、アルセノールはカイリの心の強さを感じ取って。
 カイリをぎゅっと抱きしめ、心から嬉しそうに笑った。







「……よけいなお世話だったかもしれませんけど」
 欠けるところのない月を見上げたまま、アルセノール・マクドールはカイリと入れ替わるようにして屋上へと現れた人物へと声をかけた。
「あのまま彼が沈み込んでるところを見守るだけなのも、貴方の本意ではないでしょう?」
 漆黒の長い髪が、風に揺れる。
 肯定してしまうにはすべてを見透かされているようで面白くなく、かといって否定もできないシュトラールの軍師は、表情を動かさずに沈黙をもって応えることにしたようだった。
 思いがけずシュウを黙り込ませることに成功したのが嬉しかったのか、アルセノールはにこりと少年らしい笑顔をみせる。当然のことながら、彼のそんな年相応の表情を目にしたことがなかったシュウは、少しだけ目を瞠った。
 そんなシュウの反応は気にもとめずに、アルセノールはふたたび夜空へと視線を戻す。
「頭のいい大人って、損してますね」
 真珠色の球体から降り注ぐ月光が、少年の横顔を照らす。
「彼に、ここに残ってほしいんでしょう? 軍師として、貴方個人として……なのに貴方には、あの子が何をしたいのかわかってしまう。……カイリ本人にも、よくわかっていなかったのに」
 わかってはいても、その答えを示唆することもできない。
 なぜならシュウの立場と本心が、カイリをもう一つの道へと送り出すことを拒むから。
「………」
 心の中を言い当てられることは、決して愉快なことではない。他人の考えの先を読み、それを利用してきたシュウであればなおさらだ。
 だが、今は話し続けるアルセノールを遮ることもなく、黙って彼の言葉に聞き入っている。シュウが惹かれた少年に、どこか似ている元英雄。いや、カイリが彼と同じ道をたどり、似た雰囲気をまとうようになったのだろう。
 カイリが春の陽光なら、アルセノールは満天の星。根本的なものは違っても、どちらも人を惹きつける魅力にあふれている。
 人々を安らがせるその力は、きっと天性のものだろう。
 シュウがそんなことを考えているとはきっと思ってもいないであろうアルセノールは、夜空を見つめたままかすかに笑みを浮かべた。
「子供って、わがままで残酷で、素直ですから。答えを見つけてしまったら、もうここにはとどまってはくれないでしょうね。……でも、あの子を止める気もないんでしょう?」
「……止める気がないわけじゃない。止められないだけだ」
 止められるのであれば、きっと自慢の頭脳をフル回転させてでも止めている。
 だけどシュウは、戦争が終わってしまった今、もうカイリに何の指図もすることはできない。それを、カイリが望んでいないから。
 シュウがすべてを口にしなくても、アルセノールはそれを察したのだろう。はじめてシュウへと視線を向けると、曖昧な笑みを深くした。
 そこにあるのは、憂いを含んだ少年らしからぬ笑顔。
「そこが、損してるなって。僕だったら絶対に引き止めますね、なんとしてでも……まだ子供ですから」
「……君にも、そういう相手がいるのか?」
「いませんよ。だって、グレミオは」
 大人びた笑顔につられたのか、尋ねるつもりもなかったはずの問いを口にしたシュウに、アルセノールは視線を逸らさないまま答えを告げた。
「……僕を置いてどこかに行ってしまうことなんて、もう絶対にありませんから」
 背筋に悪寒が走るような、そんな婉然とした笑みと共に。







「ぼっちゃん?」
 夕焼けに染まった北の空を眺めたまま急に足を止めてしまったアルセノールに気づいたグレミオは、慌てて自分も足を止めると年若い主へ声をかけた。
 ソウルイーターを継承して以来ぴたりと成長することをやめてしまったアルセノールの身体は、いまだ少年のままだ。もっともグレミオにとっては、たとえ外見が成長しなかろうと心が急に大人になろうと、アルセノールは大事な『ぼっちゃん』以外のなにものでもない。グレミオは命が続く限りアルセノールについていくつもりだし、そしてアルセノールもグレミオの命がある限り、彼を手放すことはないだろう。
 それが本当に正しいあり方だとは思ってはいないが、彼らにとってはそれが最良の選択なのだ。一度頼るべき存在すべてを失ったアルセノールは、依存できる相手をなくすことへの恐怖心がかなり強い。決して表に出すことはないが、グレミオはそれをよく知っている。
「うん……ちょっと待って。今……はじまりの紋章が、その運命を乗り越えたみたい」
 眩しそうに目を細めてもう一度北の空を仰ぎ見ると、アルセノールはにこりと笑ってグレミオの腕へとじゃれついた。
 アルセノールが何を言いたかったのかは理解できなかったグレミオだが、その笑顔を見てどうやらいいことが起こったらしいと判断する。そう思ったら、グレミオの顔にも嬉しそうな笑顔が浮かんだ。
「よかった。……ねえグレミオ、今日はシチューが食べたいな」
「はい、はい! シチューですねっ」
 グレッグミンスターの大通りを仲睦まじい主従が連れだって歩く姿を見た街の人々が、ほほえましい光景に暖かい笑みを浮かべた。
 もうすぐ、陽が落ちる。明日もきっと、晴れるだろう。
 まだ明るさを残す東の空には、うっすらと月が見えはじめている。

 

 

「・・・・それでも・・・・ぼくは・・・・」
 カイリが、血の気の失せた顔で自分を見上げるジョウイを抱きしめる。
「もうきみと戦うことなんて、できない」

 ……そのときあふれる光がすべての傷を癒し、新たなる旅のはじまりを告げた。


Fin...

 

■虚構文書■