夜中にふと目を覚ましたら、見事な満月が浮かんでいた。 星の光をかすませるほど煌々と明るく輝く光に誘われ、寝間着の上にマントを一枚ひっかけただけでふらりと外に出たのはほんの思いつきだった。別に、どこへ行こうという目的もなにもない。ただ、外に出てみたくなったのだ。 冬の夜にこんな薄着で出歩くなんて、正気の沙汰ではない。知人に見つかったら何を言われるかわからないなと思いつつ、それでも素直に帰って寝ようとは思わなかった。 なによりも、さほど寒いとは思わない。月に酔っているのか───そうかもしれない。 白く輝く天球を見上げ、レオン=デュランダールは曖昧な笑みを浮かべた。
雲一つない夜空に浮かぶ月は、この世のものとも思えないほど、くっきりと存在を主張している。
あてもなく足の向くままに街を散策していたレオンは、悠珂の橋で歩みを止めた。橋の欄干に伸びる人影に気づいたのだ。 この時間、あかりも持たずに街をうろつく人物はそういない。一瞬不審な人物かと身構えかけてから、今の自分もさほど立場が違わないことを思い出した。 否、橋にたたずむ人影よりも、よほど怪しい。なにせ、寝間着にマント姿で出歩いているのだ。こんな格好で職務を遂行しようとしても、よけいに怪しまれるだけだろう。 それでも気になってそこから動かないでいたら、人影のほうが反応した。……どうやら、レオンに気づいたようだった。 全身黒ずくめの青年。月明かりが、その人物の姿を浮かび上がらせる。長く伸ばされた前髪が、彼の片目を隠していた。 橋にたたずむ青年はレオンを認めて、隠されていない方の瞳をふっと和ませる。そして。 「……やあ。君も、月を見に出てきたのかい?」 彼はレオンの視線をとらえて、無邪気に微笑んだ。
妙に人懐っこい雰囲気を漂わせた青年と少しの間世間話をして、レオンは悠珂の橋を立ち去った。 深夜に、誰もいない橋で、月を見上げる人。どう考えても怪しいのに、なんとなく安心して友好を深めてしまった。確かに、昼間に彼があそこに立っているよりは違和感がないかもしれないと考えて、やっぱり何か価値観が自分の中でずれているような気分に陥る。 元々レオンは人見知りをする方ではないが、初対面でしっかり雑談までできてしまうことは少ない。というよりも、レオンが気にしなくても、相手の方が躊躇するのだろう。せいぜい挨拶止まりで終わるはずが、なんだか親友であるマハトにも言わないようなことを喋っていたような気がする。 「聞き上手って、ああいう奴のことを言うのかな……?」 月を見上げて、一言。 レオン自身は、決して聞き上手とは言えない。どちらかというと、話の腰を折る方が得意だろう。自覚がないわけではないが、長い年月をかけて培われた性格を、今になって治そうとしても遅すぎる。そもそも人の機微にさといというわけでもないので、鈍感だの野暮だのと言われてもなんの反論もできなかった。 「見かけより頼りがいありそうっていうか……父さんと喋ってる気分だったかもな」 年齢は、あんまり自分と変わらなさそうだったのに。 そう思って、つい顔をしかめる。自分がまだまだ大人になりきれていない、ということを自分で認めてしまったようなものだったからだ。 それでも、なんとなく納得する。どう考えても、彼の方が大人だろう。その場にいるだけで他人に安心感を与えることができるような雰囲気なんて、きっとレオンには一生持つことができないに違いない。 そういえば、青年はレオンの名前を知っていたな、とふと考えて。 「あ、そういえば、名前聞くの忘れた」 今更ながらに、そう気づいた。
そのまま晶砂の浜まで足を伸ばしたら、今度は意外な人物を見つけた。 銀の長い髪が、月の光を弾いている。まさかこんな時間に彼が外にいるなんて想像もしていなかったから、一瞬レオンは自分の目を疑った。 よく似た別人かと思いかけて、白衣のまま街をうろつく人間がそうそういるはずがないと思い直す。それに今日の月はたしかに見事だから、彼のような人物でも、もしかしたら月見としゃれ込むこともあるかもしれない。 ひょっとしたらレオンには予測もつかないような理由があるのかもしれないが、どうせ推測してもわかるはずがないからやめておく。世の中、知らない方が幸せなこともあるかもしれない。正直に言えば、もし魔術が絡んでいたりするのであれば、できることなら知りたくない。 なかば無理矢理に自分を納得させると、レオンは一瞬どうしようかと考えてから、砂浜にたたずむ人影の方へと近づいていった。……声をかけるために。
「……カイン? 何やってるんだ、こんな時間にこんなところで?」 波の音にかき消されて足音に気づかなかったのか、カイン=ゴートランドはめったに見せない驚愕の表情を浮かべて振り向いた。 何事にも動じない鉄面皮だと思っていたカインを驚かせたことに少しだけ気をよくして、レオンは機嫌よく挨拶がわりに片手をあげる。そんなレオンの姿を目に入れたカインは図らずも驚かされてしまったこと自体が忌々しいのか、微妙に悔しそうな表情を見せると小さくため息をついた。 「……それは、お互い様だろう」 「そ、それはそうだけど……おまえって、用事がなかったら外になんて絶対に出てきそうにないじゃないか」 「……敢えて否定はしないが」 「だろう? そのおまえがこんなとこでボーっとしてるなんて、誰が想像するかよ」 言いたいことを言って、レオンはそのまま砂浜に座り込む。見る角度が違えば、月光を反射する白砂浜もまた別のもののように見えた。 そのまま月を見上げようとして、ふと思いついて仰向けに寝転がってみる。首を無理に上向けるよりは、こちらのほうが楽そうだったからだ。 月が見えるのと同じ視界に、まだ立ったままであるカインの長い髪が見え隠れする。さっさといなくなるかと思ったのに意外だなと思っていたら、もっと意外なことに先ほどの発言に対する返事があった。 「俺だって、たまには月でも見たくなるときもある……」 「へえ〜、そりゃ意外だ。月見なんて呑気なことに時間を使うくらいだったら、実験書とか魔導書に没頭するタイプかと思ってたけど」 「・・・・・・・」 「ほら、反論できないだろ? いくら俺だって、さすがに3年も同僚やってればそれくらいはわかるぞ」 「……自覚はあるのか。それはまた意外だな」 「なにがだよ」 「……いや」 「・・・・・・。あ〜、言いたいことはわかったよ。わ〜るかったなっ、鈍感で! だけど、おまえも人のこと言えないだろうが」 「……お互い様だ、ということにしておこう」 「あ、この、逃げたな……」 そんなところばっかり器用でどうするんだよとブツブツ呟くレオンを横目でちらりと見て、カインは寝そべるレオンの隣に腰を下ろすと片手で砂をすくった。 寄せては引く波の音に混じって、サラサラと細かい砂が流れ落ちる音が聞こえてくる。その音に意識を取られながらも、レオンは目を瞬かせた。 もしかして、俺はとんでもない光景を見ているんじゃないだろうか? 用事もないのにカインが自分と会話を成立させるなんてこと自体考えたことがなかったし、会話はともかくカインがまだここに留まっているということそのものが予想の範囲外だった。それに、「黙れ」だの「うるさい」だの「おまえに構っている暇はない」だのという聞き慣れた台詞が飛び出してこないのも不思議である。 確かに月見に出てきている以上、暇は持て余しているのかもしれない。だがカインのことだから、ひとりで静かに眺めていたいのかと思っていた。そこまでわかっていながら声をかけるレオンもレオンだが、どうせロクな返事もせずにどこかに行ってしまうだろう、という予測の元の行動だったのだ。 まさか、こんな風に腰を据えられるとは思っていなかった。別にさっさとどこかに行ってほしいわけではないが、あまりに予想外の行動を取られると反応に困る。そもそも、レオンも決して器用な人間ではないのだ。 だから、つい口に出して聞いてしまう。 「なあ……なんかあったのか?」 「・・・・は?」 当然、唐突にそんなことを聞かれた方が、戸惑わないわけがない。 怪訝そうな表情で自分を見下ろすカインの視線と見事にかち合ってしまって、レオンは失敗したかなと心の中で少し後悔した。 それでも今更ごまかすこともできなくて、仕方なくもう一度口にする。 「いや、なんかおまえらしくないからさ。なんかあったのかな、とか思って……」 「別に……何もないが」 「ホントか〜? ……ま、いいけど。そういえば、カインって王都出身だったよな?」 「ああ。騎士団に入るまでは、王都から出たことすらなかったな」 その後は、仕事も何も関係ない、他愛のない昔話と世間話が続いた。
月が西に傾きかけたのを機に、レオンは晶砂の浜を後にした。 「そういえば……」 そう呟いて、砂浜を振り返る。まだ砂浜に座り込んだまま、月を見上げるカインの姿が目に入った。 首を傾げ、考える。色々思い起こして、はたと気が付いた。 「あいつとマトモに会話が成立したのって、今がはじめてか?」
「しばらく顔を見せなかったから、てっきりうまくいってるのかと思えば……」 呆れを含んだ聞き覚えのある声に、カインはゆっくりと後ろを振り向いた。 全身黒ずくめの青年が、にこやかに微笑んでいる。何年たっても変わらないその見慣れた姿に、カインはいまだ抜け切れていなかった肩の力を抜いた。 人という集団から孤立していたカインに、人とのつき合い方を教えてくれたのは、彼だった。もっともカイン自身の性格のせいか、結局いつまでたっても克服することのできなかった人への恐怖心のせいか、その教えが発揮されているとは言いがたい。しかも毒舌だけは教えもしないのになぜか継承されたらしく、もしかしたらよけいにカインをとりまく環境を複雑にしただけかもしれなかった。 それでもカインにとっては、構えることなく接することのできる数少ない相手である。家族の愛情というものを知らなかったカインに、無償の愛情をくれた唯一の人物でもある。なんの気まぐれかは知らないが、彼と出会わなかったらカインはまた全然違う人間になっていただろう。 ただし。決して模範的な大人ではない青年は、つかみどころがないだけにどこに行ってしまうかわからないあやうさがあった。 「やれやれ……育て方、間違ったかな? まあ、君が浮気できるようなタイプとも思えないけどね。でも、その押しに弱い所はなんとかしたほうがいいよ、カイン」 どうでもいいことのように軽くそう言った青年の台詞になにか思うところがあったのか、カインはふと神妙な顔つきになる。 そして、一言。 「いい加減、安心させてやったらどうだ」 まるで、繋がらない会話。目的語のない、忠告。 それでもその言葉を耳にした青年は、意味を解したのか楽しそうに笑ってみせた。本当に意味がわかっているのかとカインが聞き返す前に、青年がやはり楽しげに口を開く。 「ふふ、肝に銘じておくよ。君に面倒かけるのは、本意じゃないからね。……でも、人の心配をしてるような余裕、あるのかな?」 「そんな余裕があったら……こんなところで無駄な時間は過ごしていない」 「だろうね。しかも、気を紛らわすために出てきた場所で当の本人に出くわすとは、君も運がいいんだか悪いんだかわからないよね」 「……見ていたのか」 「さっき、悠珂の橋でばったり会ってね。ちょっと世間話してきたんだ、彼と」 「・・・・・おまえも神出鬼没だな、レン……」 「可愛い養い子である君のことが気になって、って言ったら信じてくれるかい?」 「冗談も大概にしておけ。単なる暇つぶしの間違いだろう」 憮然とした表情で言い返してみても、鉄壁の笑顔は崩れない。 どうせこいつに何を隠しても無駄だと経験で知っているカインは、それでもなんとなく割り切れないものを感じたのか、ため息をつこうとする自分を止められなかった。
欠けるところのない大きな月が、どうしようもない男たちを静かに照らしている。
「3年かかって、やっと普通に雑談ができるようになった? それは奥手を通り越して情けないって言うんだよ、カイン」 「……放っておいてくれ」 「そりゃ手を出すつもりはさらさらないけどね。それにしても、3年? 相手が女性だっていうならまだわかるよ、君の女嫌いも相当だから。でも、レオンはどう見ても男だろう? しかも、職場の同僚。なんだって、そうなるわけ?」 「……共通点がないから、だと思うが」 「そういう問題じゃないって気もするけどね。大体、大して共通の話題があるとも思えないロテールとは、円滑な交友関係を築けてるじゃないか」 「・・・・・あれを円滑というのか?」 「円滑じゃないかな? 少なくとも八つ当たりの相手にされている以上、薄っぺらい友情関係、ってわけじゃないとは思うんだけど」 「それは、確かに、そうだが……円滑か?」 「こだわるね。表面上凹凸がないだけが、親交が深いってわけじゃないんだよ。まあ、それはどうでもいいよ……結局、未だに君は、レオンと『お友達』にもなれていないわけだ」 「・・・・・悪かったな」 「別に悪くはないけどね〜」 「……何が言いたい」 「さっきも言っただろう? 情けない、って言いたいだけだよ」 「そう簡単に言うが……あいつにとって俺は、友人以下の存在でしかない」 「……そうかな?」 「……それ以外に見えるか?」 「けっこう、君のことは認めてるみたいだけどねえ……?」 「そうは……思えない」 「少なくとも、君が義理の弟になってもいい、とは思っているようだよ」 「・・・・・・・・なんだって?」 「朴念仁の君に言ってもはじまらないとは思ってたけどね……」 「おい、レン、わかるように説明しろ」 「嫌だよ、ここで俺がばらしたりしたら、後で何を言われるかわかったものじゃない」 「誰に?」 「誰かに。まあ、せめて堂々と『友人』と言える立場になれるといいね。応援してるよ、カイン」 「あのな……」 「いつまでもそんなところで留まってても仕方がないだろう? それに、俺になんとかしろと言った以上、いつ逃げ道が塞がれても構わないってことじゃないのかい? あんまり、気が長いほうとも思えないしね、君って。思い詰めると何しでかすかわからないし、さっさと玉砕しておいで。骨くらいは拾ってあげるから」 「……ひと事だと思って、言いたいことを言っているな……」 「ひと事だよ。当たり前だろう? 恋愛くらい、自力で成就させなさい」 「レン……おまえは俺をからかいにきたのか、それとも慰めにきたのか?」 「たきつけに来たに決まってるじゃないか」
月が、西の空に消えていく。 今日もきっと、晴れだろう。
−月光/fin− |