Sadistic Moonlight

 

 

 背中を、白い手が辿っていく。

 はだけられた背から脇腹へと滑るその指先には、不思議なほど迷いも戸惑いもない。淡々と、まるで検分するかのように動く白い指は、想像通りにひんやりと冷たかった。

 わずかに視線をずらすと、いつもと変わらない無表情が目に入る。何が楽しくて彼がこんなことをしているのか、ロテールが聞いてみたことはない。ただ、こうやって誘えばつき合ってくれる。顔が整っている割には女っ気のない男だと思ってはいたが、まさか自分とこういう関係になるとは思わなかった。もともと男が趣味だったとは思えないが、一体どんな気まぐれを起こしたというのだろう。

「…………んっ」

 声が漏れる。

 切れるほどに強く唇を噛んでいるというのに、どうしても声は隠しきれない。力の入らない腕を持ち上げて口を塞ごうとしたら、白い手に阻まれた。

 手首を掴んだまま、白い手の持ち主は自らの唇をロテールの指へと落とす。些細な刺激に、感覚が鋭敏さを増したようだった。

 堪えきれず、ロテールは相手の名を口にした。

「あ……カイ…ン」

 カインがロテールの指を口に含み、舌を這わせて一本ずつていねいに舐めていく。身体中を這い回る手に体内の熱を上げられていたロテールは、耐えきれないようにぴくりと身体を揺らした。

「……相変わらず、敏感なことだ」

 手首の内側に口づけを落として、カインがぼそりと呟いた。

 冷静な中にも、感心したような響きが滲んでいる。なんとなく悔しくて、ロテールは潤んではいるもののきつい視線をカインへと向けた。

「いつまでいたぶってるつもりだ? さっさとやれよ」

「それではつまらない」

 慣れた手つきで、カインはロテールの身体のラインを辿る。

 快楽に弱い彼の身体は、ある意味扱いやすい。こういったことには不慣れなカインでも、コツさえ掴んでしまえばさほど苦労することもなかった。

 ロテールがなぜ自分に抱かれようとするのかは、別にどうでもいい。カイン自身に特別これといった彼への興味があったわけでもないが、とりあえずこうしている間は他のことを考えなくてすむ。

 あまり誉められた思考停止の方法ではないことは、カインも知っている。だが何があっても実験のことにさえ頭を切り換えてしまえばすぐに気にならなくなったはずなのに、どうしても頭から離れないことがある。

 そして、それをどうしても心の奥に沈めてしまわなければならない今。ロテールの誘いは、都合のいい逃げ場所でしかない。

「……あのな。俺はおまえの玩具じゃないぞ」

「誘ったのはおまえだ。違うか?」

 肌を重ね合っているというのに冷たい指が、力の入らない膝を割った。わずかにかさついた指先は、氷のような無表情を裏切るようにやさしい動きをみせる。

 だが、ロテールが欲しいのは快楽ではなく痛み。引き裂かれる痛みよりも、慣らされる快感のほうが耐え切れない。

「違わなっ……、け、どっ……!」

 だから。

 噛み殺しきれなかった喘ぎが、唇の端からこぼれて落ちた。

 

 月はまだ、出ていない。

 

 

 

 

 

 

「おまえも、好きでもない野郎相手によくやるよ」

 はじめてそんなセリフを聞いた気がして、カインはロテールと目線を合わせた。

 ロテールは脱力してしまって思い通りには動かない身体をシーツの上に投げ出したまま、動こうともしない。

「別に、おまえのことを嫌っているわけではないが」

「当たり前だ。嫌われてる奴におとなしくさせてやるほど、俺も心が広いわけじゃないからな」

 それでも生真面目なカインの反応に、眉を寄せて苦い笑みを見せる。その苦笑を目の当たりにしたカインは、小さく肩をすくめると脱力しきった足の奥へと指を伸ばした。

 何度受け入れても慣れることのない場所に触れられて、ロテールの身体がわずかに緊張する。生理的なものである以上どうしようもないものだったが、それをより強固なものにしたのはカインの何気ない一言だった。

「……そうだったのか。誰でもいいのかと思っていた」

「……あのな、俺をなんだと思っているんだ?」

 呆れ半分、怒り半分。

 言うに事欠いてそれかと起きあがろうとして、ロテールは今がどういった状態なのか思い出した。───下手に動いたら、必要以上に痛い思いをするのは自分である。

 それでもこのまま引き下がるのはあんまりな気がして、殺気のこもった視線を怜悧な横顔に投げつける。さすがに気がついたのか、カインがじつに面倒くさそうに顔を上げた。

 だが、別に根拠も何もなくあんなことを言ったわけでもないらしい。視線でなんとか言い訳してみろと脅しているロテールにひるむこともなく、淡々と言葉をつなぐ。

「だが、あながち外れているわけでもないだろう? ただ、今はちょうど利害が一致しているから俺と寝ている。それだけのはずだ」

「……はっきり言ってくれるよな」

 そう言われると、ロテールには何も反論できない。確かに、事実だからだ。

 ロテールにはロテールの、カインにはカインの事情がある。その詳細を互いに知ることはおそらくないが、こんな不毛なことを合意の上で行っている原因になっているのは確かだった。

 捨て台詞のようなロテールの呟きが聞こえたのか聞こえないのか、カインがまた口を開く。いつでも、どんなときでも無口なカインにしては、めずらしく饒舌になっているようだった。

 痛みを引き起こした指は、少し前から止まったままになっている。だが、当事者たちはそんなことに気づいてはいない。

「間違っているか? おまえがこんなことに意味を求めるのは、ただ一人の相手だけだろう。……それが誰かは知らないが」

 一瞬、ロテールの表情が凍った。

 だがそれはほんのわずかな時間のことで、すぐに笑みにとってかわられる。

 ただし、それは魂さえも凍り付くような、冷たい微笑。

「……間違ってはいないさ。それどころか、全部アタリだよ。俺は、置いていかれるかもしれない恐怖を紛らわすためにここにいる。おまえは破るわけにはいかない沈黙を守るために、自分の心に嘘をつくためにここにいる。それだけだろ?」

「…………そうだな」

 カインの表情は変わらない。一貫して、本当に感情があるのかないのかわからない無表情。

 何を考えているのか、わからない。だから、カインが持つ感情の許容範囲を見極めるのは難しい。

 だから、触れられたくなかった箇所をえぐられ、冷たい怒りに捕らわれたロテールには。

「そこまで無表情を取り繕って、本音を押し隠してまで嫌われたくない相手、か。俺には信じられないね……都合はいいけどな」

「…………」

「まあ……共犯者だってことに免じて、それが誰なのかは知らないってことにしておいてやるよ」

「…………有り難いことだ」

「んっ……って、つまりは本命相手にこんなことはできないから、俺で代用してるってことだよな」

 ロテールには、今のカインに言ってはいけないことがわからなかった。

「…………」

 カインは笑わない。否、笑えない。決してそうではなかったとは、言い切れなかったから。

 言われるまで気づかなかった事実。身代わりを、はけ口を求めていたわけではなかったはずなのに、そうだったかもしれないということを気づかされて。

 今のカインにできることは。

「なんとか言えよ。……つっ、は、あぁ……っ!」

 ───そんなことに気づかせた張本人の身体に八つ当たりをするかのように、征服することだけだった。

「……おまえには言われたくない」

「な……に、が……あっ、ふ……っ」

「……おまえこそ、どうしてちゃんと相手がいながらこんなことをしようとする? 女遊びもやめようとしない。……相手の本気が信じられないからだろう?」

 情事の最中とは思えない、冷めた声が耳に届く。

 声は聞こえても、激痛と快楽に翻弄されて応えを返せない。否、単に意味を考えたくないだけかもしれなかった。

 レンを信じている。───でも、いつまでも一緒にいられるとは思っていない。

 愛していると言ったレンの言葉を信じている。───でも、それがずっと守られるなんて思っていない。

 レンが普通とは違うなにか重要な役割を担っているのは、ロテールにも薄々わかっている。いつか、彼は自分の前から消えるだろう。

 ……いつか、置いていかれるだろう。

 だから、今のうちから深入りしすぎないように調節しておく必要がある。

 レンとひとつになったときの快感を忘れるように、火遊びを続けて。男も、女も関係なく。

 そう無意識に思うことでより深くレンに捕らわれているのだと、ロテールが気づくことはない。

 そのまま与えられる刺激に耐えきれず、ロテールの意識は闇に沈んだ。

 

 

 

 目を覚ましたとき、すでにカインの姿は見えなくなっていた。

 もう一度目を閉じて眠り込んでしまいたいという欲求をむりやり押さえ込むようにして、起き上がる。脱ぎ散らかされたままの衣服は床の上に放置されていたが、何も着ていないロテールの体には申し訳程度にシーツがかかっていた。

 そのぞんざいなんだか几帳面なんだかわからない気配りがどことなくカインらしくて、ロテールは小さく笑みを漏らす。

 かけられていたシーツを身体に巻き付け、だるさを訴える感覚を叱咤して立ち上がると浴室へと足を向ける。いつものことだが、別に好きでもなんでもない相手とこんな体力的にきついことをしようとする自分に、自己嫌悪を感じながら。

 夜は、まだ明けていない。カーテンの隙間から、細い月の光が差し込んでいる。

 だが、もうすぐ陽がのぼるだろう。ようやく夜空に姿を現した頼りない三日月の光は、すぐに強烈な明るさに負けてかき消える。

 まるで。絶対的にベクトルの違う行き場のない想いが作る傷を、手近にいる人間を利用して癒そうとする互いの、どうしようもなく脆い関係のように。

 癒すはずが、こうやって結局傷つけ合うことになっても。

 それでも、裏切ることによる痛みがなければ今を信じることもできないロテールには、それは細い命綱のようになくてはならないものなのかもしれない。

 

 

 ……結局、最後までキスもしなかった。

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