薄い雲が晴れて、冷たく冴えた光が溢れだした。
どこも欠けることのない、満月。冷気をたたえた夜空に浮かぶ白い球体は、冷たい空気よりも一層寒さを感じさせた。 月の光に心をなごませる者もいる一方で、月に冷たさと孤独を感じる者もいる。闇に慣れた目には、すべてを暴く陽光とは違う意味で、刺すような鋭さを持つ月光も眩しすぎるのかもしれなかった。 闇に慣れた、目。闇に慣れた感覚。長いあいだ光と隔絶した世界に生きてきた者には、たとえ足下さえおぼつかないような淡い光でさえも十分すぎる刺激になる。 昼間の光と違い表面を焼くことはないが、鋭さを持って中に入り込んでくる夜の光。傷あとは、はたしてどちらのほうが深いのだろうか? 「満月……か」 月明かりに照らされて、レンは小さく呟いた。 真意の見えない黒い瞳で夜空を見上げていたと思ったら、なにかに気を取られたかのように視線をそらす。長い前髪が、俯いた顔に影を作った。 そのまま立ち尽くして、じっと考え込む。記憶の底に沈んでしまった何かを思い出そうとしているらしい。 そんな彼の気を引くかのように風がそよぎ、丈の低い草木を揺らす。夜だというのに花が咲き乱れる丘を渡りだした突然だが優しい風に首を傾げると、レンはふと目元を綻ばせた。 風にひそんでいる精霊の存在に気づいたのだ。 風の精霊たちはくるくると戯れるようにレンのまわりを飛び交うと、かわるがわる黒い制服のあちこちを引っ張った。どうやら、どこかに連れていこうとしているらしかった。 くすりと笑うと、レンは精霊たちが促すままに足を踏み出した。花の上に伸びた淡い影が、主の歩みに従って動き出す。 「案内してくれるのかい? 手間をかけて悪いね」 そんなことは気にするなと言わんばかりに、花の香りを含んだ風が吹いた。
ひときわ大きな白い花の前で、レンは足を止めた。 まわりで戯れじゃれつく精霊たちの起こす風に煽られて、黒髪がなびく。不自然に揺れる髪など眼中にないかのように花に見入っていたレンだが、ふいに肩口あたりへ視線を投げるとあざやかな笑みを見せた。 「ああ……やっぱり咲いてたね。今日あたりだとは思ったんだ──ありがとう、君たちのおかげで見そびれずにすんだよ」 レンの感謝の言葉と笑顔に気をよくしたのか、一瞬風の勢いが強くなる。だがそれは本当に一瞬で、目的を果たした精霊たちは夜の空気を楽しむかのようにあたりをふわふわと漂いはじめた。 おそらくレン以外には見えないそんな光景に慈しむような微笑みを見せると、レンは白い花へと視線を戻す。 月光を浴びて、気高く咲き誇る白い花。月の明るい夜に一晩だけしか咲かない、気高く高慢な夜の女王。 一夜しかそのあでやかな素顔を見せることのない、月華。その高慢さを責めるのは簡単だ。だが、彼女の心を知る者はいるのだろうか? 一晩しか咲くことができない、孤独な美しい花の心の内を推し量れるものが、この世界にいるのだろうか? 蕾に押し隠した孤独を忘れるかのように、かの花は艶やかに華やかに花開く。たとえそれが一晩だけの歓喜であろうとも。白く輝く素顔をさらす。 それは、彼を思い出させる。柔らかい拒絶を纏って生きてきた、彼を。 ──自分だけに見せる素顔。そのまま摘み取ってしまいたいと思うのは、罪なことだろうか? 放っておけば、朝には枯れてしまう花。レンには、枯れる運命を引き延ばすことができる。だがそれは、自然の摂理に反することだ。流れを重んじるなら、手を出すべきではない。たとえ、そう時間をおかずに枯れてしまうのだとしても。 ……唐突に、精霊たちの気配が消えた。秘畢の丘を訪れた来客に気づき、慌てて隠れたようだった。 視線を上げると、月光を反射してきらめく金の髪が見える。メビウスの輪のように終わりのない思索の糸を断ち切ったのは、袋小路を作り出した張本人だった。 このままここにいれば、やがて彼はレンの元へとたどり着くだろう。この丘には目印になるものもないが、視界を遮るものもない。人間ほど、見つけやすいものもない。 まだしばらく、考えるための時間はあるはずだ。たとえ答えが出ないとしても、出した答えに生涯後悔することになるとしても。 時が流れれば、新たな花をつけることもある。それを待つべきではないのか……? それでも。今、自分に向けて伸ばされているその手を、振り払うことができるのか?
月はなにも答えない。 |