「甘い夜」
桜ヶ丘病院の一室。
龍麻は、読んでいた本から顔を上げ、窓の外を見る。
空は薄暗く、どんよりとした雲が重くたれ込めていた。
「・・・結局、来てくれなかったな・・・。」
窓から視線を戻した時、ふとこぼれた呟き。
その時龍麻が見ていた物は、楓の葉をあしらった栞だった。
「・・・ふぅ。とうとう来てしまったな。」
紅葉は、桜ヶ丘の前で立ち止まり、思わず溜め息をつく。
龍麻が入院してからの5日間。
ずっと心の中で一つの感情がせめぎ合っていた。
会いたい・・・会いたくない・・・
会えばきっと欲しくなる。だから・・・。
本当は来るつもりはなかった。
なのに今日退院する、そう聞いた時、その足は自然と病院へと向いてしまっていた。
今の紅葉は、右手にバラの花束を、左腕にはスーパーで買った食材を抱えていた。
退院祝いに何かごちそうをつくるから・・・そう言えば、会う言い訳になるかと思ったのだ。
玄関からロビーへ入ると、紅葉の耳に、聞き覚えのある声が届く。
「今日は俺の奢りだからよッ、スタミナでも味噌チャーシューでも、好きなもん注文していいからなッ。」
・・・蓬莱寺が来ているのか・・・。
とたんに、脳裏に京一のへらへらとした顔が浮かび、ムッとなる。
そのせいか、さっきまでの迷っていた気分が、ふっ飛んでいった。
「ふぅん、ラーメンとは、また豪勢な食事だね。」
「な、なにィ・・・? て、てめェは壬生じゃねェか!なんでお前がここに・・・!?」
かけられた声に振り向く龍麻。
「紅葉!?」
紅葉は息巻く京一を無視し、龍麻へと花束を差し出す。
「龍麻・・・。退院おめでとう。」
「あ、ありがとう・・・。」
花束を抱えて、嬉しそうな龍麻。真紅のバラに埋もれたその笑顔は、紅葉に、今まで会いに来なかったことを後悔させるだけの力を持っていた。
「龍麻。退院祝いに何かごちそうを、と思って来たんだけど・・・、どうやら先客があったみたいだね。」
ちらっと、京一に視線を向けながら、龍麻に話しかける。
---ち、ちくしょう。なんて目ェしやがるんだ。コイツは!
京一は、その視線に含まれた敵意に、思わず怯んでしまった。
「どうする?龍麻。僕はとりあえず、君の元気な姿が見れたから、どちらでも構わないんだけど。」
心にもないことを・・・
心の中で、呟く紅葉。
そう、出来ることならこのまま、この場所からすぐにでも龍麻を連れ去りたかった。
だが、この男にだけは負けたくない・・・。
京一の前であることが、紅葉のプライドを刺激したのだ。
龍麻は、そんな紅葉の葛藤にはまったく気付かず、ちょっと考え込んだ後、京一へと顔を向ける。
そして、心の中で、勝った!と喜ぶ京一へと、残酷な一言を告げた。
「ゴメン、京一。ラーメンはまた今度にしてくれる?」
「本当に、よかったのかい?」
龍麻の部屋。紅葉はキッチンへ向かいながら問いかける。
「え?何が?」
「蓬莱寺と一緒に行かなくても、さ。」
・・・我ながら素直じゃない・・・。
「ん?いいよ。だって京一とは同じ学校なんだし、いつでも一緒に行けるからね。だけど、紅葉の手料理なんて、滅多に食べれないじゃないか。」
龍麻は、クスクスと笑いながら、貰った花束を活けるための、花瓶を取り出す。
そんな何気ない龍麻の一言が、紅葉の心に光となって差し込む。
「そうか。じゃあ、腕によりをかけて作るよ。今日はクリスマス・イブだしね。」
「うん。期待してるよ。」
龍麻の笑顔が、胸に暖かく染み込んで行く。
参ったな・・・。
なんとなく食事だけでは済みそうもない予感が、紅葉の心をよぎって行った・・・。
「いただきまーすっ!!」
「ああ、たくさん食べてくれよ。」
チキンソテーをナイフで切り、ぱくっと口に入れる。
「・・・おいしいっ!!」
「そうか。よかった、喜んでもらえて。」
「うん、ホントおいしいよっ。・・・すごいなぁ。紅葉って料理も上手なんだ・・・。」
幸せそうに、料理を口に運ぶ龍麻。
なんだか6日前の、あの悲劇が嘘のように思えて来る・・・。
柳生の剣によって、崩れ落ちていく龍麻。
心が凍る気がした。
紅葉にとって、母だけが生きる存在だったはずだ。
なのに、あの時紅葉の脳裏には・・・龍麻を失いたくない、それだけが占められていたのだ。
「・・・? どうしたの、紅葉?」
「あ、ああ、いや。・・・君が倒れた時の事をちょっと思い出していただけだ。・・・本当によかった。」
「・・・ゴメン、いっぱい心配かけちゃったね。」
食事の手を止め、うなだれる龍麻。
「謝ることはないさ。君が悪いわけじゃない。」
「・・・うん。」
「さぁ、冷めないうちにどんどん食べてくれ。」
・・・本当に参った。
紅葉は、龍麻の仕草一つ一つが愛しくて、どうしようもなく自分の心が、追い詰められて行くのを感じていた。
「ごちそうさまでしたっ!!」
「どういたしまして。喜んでもらえて、僕も嬉しいよ。」
紅葉は、洗い物をひとまず、シンクへ置く。グラスを二つ持って部屋へと戻り、シャンパンのコルクを抜く。
部屋へと広がるシャンパンの甘い香り・・・。
グラスを合わせると、微かに「チンッ」と音が響く。
「・・・ふぅ。おいしい・・・。」
突然クスクスと笑い出す龍麻。
「どうしたんだい?」
「・・・病院じゃさ、さすがにお酒飲めないからね。嬉しくって。」
再びクスクスと笑う。
「それに・・・。」
「それに?何だい?」
「・・・ううん。何でもない。」
龍麻のちょっと拗ねたような顔。思わず紅葉は、龍麻の手首を掴み、問い詰める。
「何でもない、って顔じゃないな。」
「・・・紅葉がいるから、嬉しいんだ。・・・寂しかったから・・・。入院してる間、来てくれなかったから。」
その言葉が、紅葉の胸に突き刺さる。
「すまない・・・。」
紅葉はそのままそっと龍麻を引き寄せ、抱き締める。
「あったかい・・・。」
うっとりと、紅葉の肩に頭を寄せ呟く龍麻。
「怖かった。会えばこの一言を言ってしまうから。」
言ってしまえば、もう元には戻れない。
「・・・龍麻。愛している・・・君だけを・・・。」
腕の中の龍麻が、ぴくっと反応する。
顔を上げ、紅葉の瞳を覗きこむ。
「・・・ホント?」
「ああ、本当だ・・・。」
「嬉しい・・・僕も、紅葉が好きだよ・・・。」
次の日の朝
「もうそろそろ、紅葉も学校に向かわないと、遅刻するよ?」
真神学園へ向かう途中、どことなく辛そうな龍麻は、隣の紅葉へと問いかける。
「・・・いいや、真神の校門までは送らせてもらうよ。」
---昨夜は無理させちゃったしね---
耳元でそっと囁くと、龍麻は首筋まで真っ赤に染まってしまった。
本当に可愛いな・・・
やっと手に入れることが出来た、愛しい恋人の恥じらう姿に、紅葉の顔に自然と笑みが浮かぶ。
二人が校門の近くまで来ると、そこに男が一人、座っているのに気付く。
「あれ?京一じゃないか?・・・こんなところで何してんの?」
声をかけられた京一が、龍麻の隣に紅葉がいるのに気付き、声を荒げる。
「なッ、なんでコイツがひーちゃんと一緒にいるんだよッ!!」
京一の問いに、再び顔を赤らめる龍麻。
「えーっと・・・そのー・・・。」
・・・ま、まさか・・・まさか・・・?
紅葉は、呆然する京一に一瞥を投げかけると、龍麻へと告げる。
「ほら、龍麻。こんなところに立っていると風邪を引くよ。早く教室に入った方がいい。」
「でも、京一が・・・。」
「ああ、彼には僕からちょっと話があるから・・・。」
「そう?じゃあまたね。紅葉。」
龍麻は、京一の様子にちょっと心配そうな顔を向けつつも、紅葉の言葉に従い、玄関へと向かって行った。
「さて、と・・・。蓬莱寺。」
「な、なんだよッ!!」
紅葉の悠然とした様子に思わず身構える京一。
そんな京一の耳元へ紅葉は告げる。
「・・・龍麻の左足のつけ根に、ほくろが2つあったよ・・・。」
『ピキンッ!!』
「さ、僕も学校へ行かなきゃね。」
そう呟き、きびすを返し、紅葉は学校へと向かって行った。
ひゅ〜〜〜〜
あとに残ったのは、登校して来る生徒達に、気味悪そうに避けられる、彫像と化した京一だけであった。
・・・合掌。
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