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目の前をひらひらと横切るレースの動きに視線を合わせ、ロテールは今日何度めかわからないため息をついた。
心、ここにあらず。
そんなあからさまな態度を示す彼を心配してか、レースとフリルに飾られたドレスに身を包んだ女がロテールの顔を横からのぞき込む。
「冴えない顔してるわね」
「冴えない……? この俺をつかまえてそれはないだろ?」
「なら、言い換えてあげましょ。まるでデートの相手にすっぽかされたような顔してるわね」
「……あのな」
「あら。反撃がこないところを見ると、図星だったのかしら」
カタンと軽い音をたてて椅子を引くと、クスクスと笑いながら女はテーブルについた。
ちょうど、ロテールの目の前。テーブルに両肘をついて頬杖をつくと、じっと彼の顔を見つめる。
「そうよね、ここしばらくあんまり姿を見せなかったものね。一体、どういった風の吹き回し? 貴方がこんな早くからココにいるなんて」
「……たまには、いいだろ?」
「その割には、どうにもぱっとしない顔してるのよねえ」
そう言いつつ、カラになったロテールのグラスにさりげなくワインをそそぐ。それに気づいているのか気づいていないのか、ロテールはまたしてもため息をついた。
「それに、早いって言っても……もう夕方過ぎだぞ」
「花街では、夕方を『遅い時間』とは言わないわよ」
今更何を、とでも言いたげな視線をロテールに投げ、彼女は小さく肩をすくめた。
一体、どうしたことか。どう考えても、いつものロテールとは思えない。
モテる上に女性の扱いが上手いこの男は、昔から1人の女に深入りするということはなかった。まさに、いつ見かけても隣にいるのは違う女。そもそも心に決めた女がいるのなら、花街……いわゆる歓楽街にたびたび出入りする必要もないはずだ。
そんなロテールの姿を花街で見かける回数が目に見えて減ったのは、ここ数カ月の間である。平日の夜などにはまだ時々現れることもあったが、休日に客となっていることはまずなかった。
一時はとうとう本当に結婚でもするのかと噂になったものだが、紅地区いちばんの姫……高級娼婦、娼妓の呼び名である……が一笑に付して以来、単なる笑い話としておさまっている。街いちばんの姫ということは、彼女の握っている情報も街いちばん、ということだからだ。
ということは、相も変わらず女の天敵みたいな素行を繰り返しているはずだろうに、このため息の嵐はどうしたというのだろう。
「……で、一体どうしたっていうのよ? 貴方が滅多に見せない辛気くさい顔してるもんだから、店中の人がみんなこっちをうかがってるわよ。ひとりでため息ついてないで、ちゃっちゃと吐いてしまいなさい!」
慣れない雰囲気に女自身がいたたまれなくなったのか、彼女はどん、と派手な音をたてて手にした瓶をテーブルに置いた。
別にロテールに朝からずっとため息をつかせている原因は、アルバレア王国に危機が迫っているだの聖乙女がなんだの、という切実なものではなかった。
「よりによって、こんなときってのはないんじゃないか?」
もっとも彼にしてみれば、それこそアルバレア存続の危機にでも陥ったほうが落ちついていられるだろう。なまじ極めて私的なことなので誰にも相談できないが、そもそも相談しても意味がない。
「そりゃ、あいつから『その日は王都にいない』って言ってきたのは進歩だと思うけどな」
思ってはいるが、やはり納得がいかないらしい。王子の外遊に付き従っていてそもそも国内にすらいない近衛騎士団長に向けて、口の中でブツブツと文句を言っている。
実際には騎士団長が王都にいない以上別の人物の人事なのだろうが、近衛騎士団内の命令系統なんてロテールは興味すらなかったので、把握していない。結局は、いちばんよく知っている人物を悪者にするしかないわけだ。
「なんでいつもは王都からめったに離れたりなんかしないくせに、こういう時に限っていないんだよ」
単に、会いたい人に会えなくて、拗ねているだけなのだ。
───今日は、ロテールの誕生日である。
あまりパッとしない気分のままに適当に歩いていたら、いつのまにか王都のかなり外れまで来ていた。
それでも無意識のうちに、自分がくつろげる場所へと足が向いていたようだ。歩き慣れた道を進むと、初代聖乙女の記念碑が見えてきた。
ロテールは、よくここに来る。別に日参せずにはいられないほど聖乙女という存在に心酔しているわけではないが、なんとなく落ちつくのだ。恋人同士の憩いの場としても決して無名ではないので、女連れで訪れることも少なくない。逆にひとりで来て、女性に声をかけられることも稀にあった。
とはいえ今日はすでに日も落ちてしまっているので、人影はないに等しい。月明かりを浴びた聖乙女の像だけが、噴水を型取った泉に映っている。
静寂が、場を支配する。晩秋の冷えた空気と静けさがささくれた心をなだめていってくれるようだった。
深呼吸をするように、ひとつ息を吐く。そのとき、ぱしゃん、とかすかな水音が聞こえた。
誰か他に、人がいたのだろうか? ロテールがそっと水音が聞こえたほうをうかがうと、聖乙女の像の影になった場所に錫杖を手にしたひとりの人物がいた。
影になってしまって横向きの顔は見えないが、シルエットからすると女性だろう。聖乙女の像を護るように澄んだ水をたたえる泉を覗き込み、じっと水面を見つめている。しばらくそうしていたかと思うと、今度はすっと腕を伸ばして泉へとかざした。
彼女の手のひらからポウッと小さな光が生まれ、虹色に輝く。しかしそれは本当にごくわずかな間のことで、次の瞬間には光も四散していた。
「…………!?」
水の魔法かと思ったが、そういうわけでもないらしい。だが、光の魔法でもないようだ。少なくとも、燐光の聖騎士であるロテールはその存在を知らなかった。
一体、今のは何だったのか。そんな想いが強すぎたのか、それとも自覚がないままに視線を感じとられるほど不躾にその姿を見つめていたせいなのか、彼女が何かに気づいたかのようにこちらに顔を向けた。
漆黒の長い髪がふわりと揺れる。突然のことに虚をつかれたロテールを認めて、彼女はにこりと微笑んだ。
「……何かご用ですか?」
その片目を覆い隠す長い前髪が、闇の色をたたえた瞳が、何よりも柔らかい微笑が今はすぐ側にはいない大切な人の面影そのもので、ロテールはしばし返事もできずに立ちすくんでいた。
「……そうだったんですか。伯爵様の大切な方に似ているなんて、私も運がいいですわね」
動揺していたのでかなりしどろもどろな解説にしかならなかったような気はするが、どうやら彼女は納得してくれたようだった。
クスクスと笑みをもらし、石造りの段差に腰を下ろす。かなり高いところに位置することになるロテールの顔を見上げ、彼女は楽しそうな笑顔を見せた。
「それにしても初耳ですわ、伯爵様にも心に決めた方がいらしたなんて。おめでたい話が聞けるのも、そう遠くないかもしれないですわね」
「いや……それはないな」
否定するのもしゃくだが、こればかりは事実だから仕方がない。それでもつい不満そうな顔になったロテールの心中に気づいているのかいないのか、彼女は首を傾げてみせた。
さらりと流れる黒髪は、彼よりもかなり長い。黒いローブから覗く手首の白さはあまり変わらないが、細さはやはり比べるべくもない。声も、もちろん違う。
別人とはわかっていても、レンをそのまま女にして髪が長くなったような容姿を持つ彼女の前では、やはりあまり冷静ではいられない。何よりも先ほどから惜しげもなくさらされる笑顔が、レンとうりふたつなのだ。
しかも今、レンはここにはいない。結構ややこしい仕事らしく、いつ帰ってこれるかもわからないという。
今日は、ロテールの誕生日。なのに、いちばん側にいてほしい人はここにいない。でも、容姿からしぐさまでそっくりな別人が、今ここにいる。
元々、ロテールは決してモラルに溢れた性格ではない。そうであれば、あまり名誉とも思えないような浮き名を流してもいなかっただろう。
だから。誕生日の夜に、少しくらい不謹慎なことを考えても、別にロテールがやましい気分になることは、ない。
「相手にその気がないんだよ。だから、きっと一生このままだな」
「あら、それはわかりませんわよ?」
何かを言いたげに彼女が微笑む。もっともそれはあまりに一瞬のことで、ロテールはそれに気づくことはできなかった。
「わかってたら、こんなに苦労してないさ。……ああ、これは君と俺だけの秘密だよ?」
「大丈夫ですわ。おそらくどなたも信じませんもの、そんな話」
「それもまた寂しいけどな……大体今日は俺の誕生日だっていうのに、あいつときたら仕事があるからって祝いにもこないしな。俺のいちばんほしいものがなにか、よく知ってるくせに」
当初の目的から外れて、どんどんレンへの愚痴になっていく。わかっていても止められないのは、やはり誕生日に放っておかれたことに対して、傷ついているというよりは拗ねているからだろう。
このままだと言わなくていいことまで言ってしまいそうだと思ったとき、おそらく意図せずに路線を戻してくれたのは、彼女だった。
「あら、それはお寂しいこと。でも、お仕事なら仕方ありませんわね」
「……なら、君がなぐさめてくれるかな?」
錫杖を支える白い手の上に、そっと自分の手を重ねる。かがみ込んで彼女の耳元にささやいた台詞は、決して社交辞令ではなかった。
それを感じとったのだろう。彼女はさりげなく自らの手に重なったロテールの手を外すと、艶やかに微笑んでみせる。
「……ふふ、お誘いは嬉しいのですけど、このあとどうしても外せない用事がありますの。それがすむまで待ってくださるのなら、考えますわ」
「それなら……」
見上げてくる黒い瞳をのぞき込み、彼女の肩に触れる。その身体が強張らないことに少し安心して、そのまま顎に手をかけた。
「伯爵様?」
不思議そうな声音の中に、どこか面白そうな色がひそんでいる。たとえ自分がどんなに不利な状況に追い込まれても、心の一部はその状況そのものを楽しんでいそうなところまで、彼女はレンに似ている。そんな考えが頭をかすめたが、深く気にしないことにして彼女へと顔を近づけた。
お互い目を開いたまま、至近距離で見つめあうことになる。ロテールの望みを察したらしい彼女は、クスっと笑みをこぼした。
それを了解の意と取ったロテールは、自分から目を閉じる。そのまま、唇同士がふれ合った瞬間。
「……今はここまでにいたしましょう、ね」
ロテールの意識は、闇へと溶けた。
ゆっくりとその場に崩れ落ちるロテールの身体を、彼女は女の細腕でそれでもしっかりと受けとめる。
「……伯爵様?」
確かめるように呼びかけてみるが、思ったとおり返事はない。なんだか幸せそうな顔ですっかり寝入っているロテールの顔を覗き込んで、女はほっとしたような呆れたような表情を見せた。
そしてやれやれ、とため息をひとつ。
「まったく……この子はいつでもこんなに無防備なのかい? そのうち、変なところに連れ込まれても知らないよ」
「その顔に油断しただけじゃないですか?」
ため息をけちらすかのように、別の声が割り込んできた。
背後から聞こえてくるやや刺を含んだ聞き慣れた声に、彼女は軽く肩をすくめる。振り返ると、先ほど魔法で呼びつけたその相手が、憮然とした表情で立っていた。
彼女は小さく笑って、寝入っているロテールの頭を起こさないよう注意しながら膝の上に乗せる。金の髪が流れて、年齢よりも幼く見える寝顔が夜気に晒された。
優しげな笑顔でそれを見下ろし、来訪を予測していたらしい客人へと視線を移す。この場にいるはずのない近衛騎士団長黒翠の聖騎士を見上げるその表情は、いつもと性別は違ってもやはりこの場にいるはずのない漆黒の聖騎士のものだった。
「思ったより早かったね」
「水鏡の魔法で呼びつけたのはどこのどなたですか。通路は開きっぱなしですからね、早々に閉じてくださいよ。空間バランス崩れたらどうするんです」
「閉じておいてくれてもいいのに……」
「閉じ方知ってたら、とっくにやっていますっっ!」
「そうだよねえ。でも、閉じちゃったら君が帰れないだろう? なら、いいじゃないか」
「そういう問題じゃ……もう、いいです」
言い合いの意味のなさに気づいたのか、アラン・ガシューは自分から不毛な会話を打ち切った。はあっと大きくため息をつくと、封書を差し出しつつ首を振る。
「別に、私はレン様と漫才をしにきたわけじゃないんですよ」
「あたりまえじゃないか。私だって、そのためにいちいち魔道開いたりしないよ、面倒くさい」
「……わかってるなら、いちいち脱線させないでくださいませんか。それに、なんだってロテール殿と一緒なんです? まさか・・・・」
「……私から声をかけたわけじゃないよ、言っておくけど」
レン様からちょっかいをかけたんじゃないでしょうねその格好で、と言いかけたところに先手をうたれて、アランは少しだけ意外そうな顔をした。
もっともちょっかいを出すまでもなく、この顔が歩いていたらおそらくロテールは無意識のうちに声をかけてしまうだろう。たとえ別人とわかっていても、たとえ性別が違っていようとも。
実際には性別は違っても別人ではないのだが、普通の思考回路の持ち主の場合、まさかそんなことを考えるはずもない。
「……要するに、ナンパされたと」
「まあ、似たようなものかな。えらく動揺してておもしろかったよ」
それは、動揺もするだろう。自分の恋人と顔から雰囲気からそっくりな人物が、もうひとり現れたのだ。しかも、性別だけ変えて。
動揺しないほうが、おかしい。
見てはいなかったもののその現場が容易に想像できて、アランはついロテールに同情してしまった。
「・・・・・・もてあそばれたロテール殿には、ご愁傷様としか言えませんね……」
「もてあそぶ、だなんて失礼な。君が来るまでの暇つぶしに、話し相手をしてただけじゃないか」
「それなら、なんで彼はそこですっかり寝入ってるわけです?」
「それは、この子は話し相手だけですませるつもりがなかったからじゃないかな」
「……その顔相手じゃ、ロテール殿の勘も鈍るでしょうね……」
「・・・・何が言いたいのかな?」
「いえ、別に。で、どうなさるんですか」
「この子かい? そりゃあ、まさかここに捨てていくわけにはいかないよね」
「……ご自由に。……ですから私は、レン様のノロケ話を聞きに来たわけじゃないんですよ。さっさと本題に入ってください」
「わかったよ。ギアールのことだけどね……」
月明かりの元、聖乙女の像を前に、王国の命運を担うはずの会話がなんでもないことのように続いていく。
それは、また別の物語。
The End