かちりと機械音を立ててから鳴り出した電話のベルを耳にして、植原七央は眺めていた雑誌から目を上げた。
とても授業などできる状態ではない学園が寮ごと閉鎖状態になってから、そろそろ一週間が経つ。進級・卒業できるのか留年扱いにされるのか、それ以前に学校そのものが復興されるのかそれともなくなるのか。それすら不明のままではあったが、学生たちはそれなりに日々を過ごしているようだった。少なくとも塔の中で過ごした半年よりは、よっぽど日常に近い。
学校自体には興味がなく、ついでに進級もどうでもいい七央にしてみれば、長い冬・春休みを過ごしているようなものだ。つまり暇をもてあましていたわけで、機嫌の悪いときであれば無視する電話にもちゃんと応対する気になったらしい。真剣に読んでいたわけではない雑誌を放り投げると、腕を伸ばして無線式電話の子機を取り上げた。
「はい、もしもし?」
『七央? 私なんだけど、ねえねえ、何がいい?』
「はぁ??」
電話の向こうから聞こえてきた唐突なセリフに、七央は呆れ顔で手にした受話器を見つめる。声で、相手が誰かはわかった。母親だ。
突然まったく関係ない話題を持ち出してくるのはいつものことだったが、さすがにこれでは何が言いたいのかまるでわからない。一瞬「違います」と言って電話を切ってやろうかという考えが頭をよぎったが、ぐっとこらえて七央は言葉と同時にため息を吐き出した。
「あのな。せめて日本語喋れ」
『日本語じゃないの! ああもう、そうじゃなくってね。トリュフと生チョコとウイスキーボンボンとチョコクッキー、どれがいいかなって思ったのよ。母の愛よ、母の愛。どうせバレンタインのチョコ、くれる女の子なんていないんでしょ……我が息子ながら情けない……』
「あのさ……ケンカ売ってんのか?」
『七央ちゃん、ケンカ売っても買ってくれないんだもの、さみしいわ……だからそうじゃないんだってば。チョコレート、どれがいい? 好きなのあげるわよ、せっかく今年は家にいるんですもの』
つまり、バレンタインチョコの御用聞きだったらしい。もうそんな時期だったということに初めて気がついた七央は、無意識のうちに嬉しそうな笑みを浮かべた。……母親以外にチョコレートをくれる女の子がいないというのは、事実だったが。
「やっぱチョコは生チョコだろ。他のも好きだけど……あー、でも、ウイスキーボンボンはイマイチ」
『生チョコね。普通のやつがいいんだったわよね……にしても、ウイスキーボンボンもダメなのねえ……そのお子様味覚、少しはなんとかならないの?』
「ほっとけ」
『ひどいわ、しくしく。それじゃ、引き続きお留守番よろしくねー』
まったくひどいとは思っていなさそうなハイテンションをキープしたまま、一方的に電話が切られる。やたらと疲れた気分になりつつ通話を切った受話器を投げ捨てた七央は、先刻放り投げた雑誌を拾おうとしてふと手を止めた。
「って……バレンタイン……だよな、うん」
バレンタインデー。それは、好きな人に贈り物をする日。……ただし、日本では女性から男性に、という注釈がつく。
母親に教えられるまできれいさっぱり忘れていたが、バレンタインデーはもう目前だ。七央にも好きな人は、いる。いないなんて言おうものなら、おそらく周り中からツッコミを喰らうだろう。
だが、男である自分が同じく男である相手に、バレンタインのチョコを贈ってもいいものなのか。海外ならともかく、日本でそれはどうなのか。そもそも、相手に迷惑がられたらどうするのか。そこまで一気に思考が巡って、七央は真剣に考え込んでしまった。
もっともこれから告白するという状況ならともかく、すでに相思相愛である以上障害にはなりえないことばかりであったりもする。つまりはっきり言ってどうでもいいことで悩んでいるわけだが、ひとつのことについて考え出すと周りが一切見えなくなるという悪癖を持っている七央がそんなことに思い当たるわけもない。
「あ〜〜〜、めんどくせぇ。忘れたまんまだったらイチイチこんなこと考えずにすんだっつーに」
思い出させてくれた母親を一瞬恨みそうになるが、バレンタインという単語を復唱すると同時に碑凪武の顔を思い出したのも自分だから、たぶんそれは筋違いだ。
「大体、バレンタインのチョコ売り場なんて女だらけじゃん……そこ行くつもりかよ?」
行くつもりがあるから悩んでいるんだということにも、当然気づいていない。
「つーか、そもそも殉教死した坊主の記念日じゃねぇのかよ、バレンタインって」
しかも葛藤するあまり、まるで関係ないことにまで思考が飛んでいる。
そして結局、「ついでに自分が食べるチョコを買いに行きたい」という言い訳の元に七央が自分自身を納得させたのは、両手に大荷物を抱えた母親が買い物から帰ってきた頃だった。 |