a Day in their Life

暮 れ ど き の 日

ゆうぐれどき・の・にちじょう


 

 

 

 優しげな笑顔の下に隠れた、冷めた感情を見たとき。

「俺は、お前の上っ面の優しさだけが欲しいんじゃねェよ」

 本音を見せろと詰め寄ったときの、楽しそうな笑顔を見たとき。

「俺は別にかまわないけど……後悔しても知らないよ?」

 もう、戻れないところにまで来ていたのかもしれない。

 

 

 

 制服のポケットから鍵を取り出した龍麻を見て、京一はふと声をかけた。

「あれ、誰もいないのかよ?」

「そうだよ。今、母さんも弟も、父さんのとこ行ってんだよね」

 なんでもないことのようにそう口にして、龍麻は慣れた手つきで鍵を鍵穴に差し込む。

 へぇ、と思わず聞き流しかけて、京一はその台詞の違和感に気づいた。

「親父さんとこ?」

 たしか、龍麻は父親の転勤で東京に引っ越してくることになった、と言っていなかっただろうか。

 親の転勤についていかなかった子供が一人暮らしをはじめるというのは別にめずらしい話でもないが、それは転校しないためだ。わざわざ転校までしていたら、それはあまり意味がない。

 それに、今現在京一の目の前にあるこの家は、たしかにマンションの一室ではあるがそれなりの広さはありそうだ。高校生男子が一人暮らしをするには、どう考えても広すぎる。それにおそらく日本の一般家庭とそう変わらない経済状態であるはずの緋勇家に、そんな無駄遣いをする余裕があるとも思えない。

 そんなことを思わず考え込んでしまった京一に気づいたらしく、ドアのノブに手をかけたまま龍麻が振り返る。そして京一の抱える疑問も察知したのか、整った顔に浮かべた笑みを深くした。

「そ、父さんとこ。転勤早々、今度はロサンゼルスに長期出張中で飛ばされちゃったのさ、ついてないよな。……ほら、入れよ。ま、そーゆーワケで、何も出てこないけど」

「いやァ、別に何か期待してるわけじゃねェからな……お邪魔しま〜す」

 ……確かに食べ物や歓待を期待しているわけではないが、本当に何も期待していないわけでもない自分の心にはあえて蓋をして、京一は人気のない龍麻の家に上がり込んだ。

 

 

「今日、花火大会あるらしいんだ。うちに見に来ないか?」

 午前中いっぱいを潰すはめになった補習もなんとか終わり、いつものようにラーメン屋に寄ったその帰り道。なんの前触れもなくそう言い出したのは龍麻だった。

 龍麻の成績は総合でいえば京一と違って決して悪くはないのだが、得意不得意科目の差が激しいのでいくつかは赤点の世話になっているものもある。それに加えて日頃の授業以外の勉強をまったくしないので、いわゆる暗記物が大の苦手らしい。

 なので英語の補習日、教室で手を振る龍麻の姿を見かけたときには、京一のほうが驚いた。元々成績に不自由している京一や醍醐ならともかく基本的に要領のいい龍麻が、補習を受けることになるような点を取るとは思っていなかったからだ。

 もっとも、なんでもできそうな顔をしていながら頑として自分が興味のあることしかやろうとしない龍麻の性格を考えれば、容易に納得できることではあった。人が良さそうな顔をしているくせに、気を許した人間相手だとまるで別人のような傍若無人さを発揮する真神学園の人気者にいちばんいいように弄ばれているのは、おそらく蓬莱寺京一、彼自身だからだ。

「花火大会? ひーちゃんちですんのか?」

 だからめったにない龍麻からの誘いだというのに、京一はつい身構えて間抜けなことを口走る。言ったあとでそんなはずがないと後悔してみたところで、龍麻の呆れ返った一瞥からは逃れることはできなかった。

「んなわけないだろが。うちから見えるトコでやるらしいんだよ」

「そりゃそーか……って、え、ひーちゃんち行ってもいいのか?」

 納得してから重要なことに気が付いて、京一は思わず目を丸くする。「お前、人の話ちゃんと聞いてる?」とでも言いたげな龍麻の視線はとりあえず黙殺して、勉学にはめったに使われることのない頭をフル回転させた。

 うまい話には裏がある。

 なりゆきで龍麻に告白してしまってから早2ヶ月、不本意にもそんな格言を想い人に叩き込まれてきた京一にとっては逃がすわけにいかないチャンスであり、そしてトラップでもありえた。飛びつきたいのは山々だが、この飴と鞭というには99%の確率で鞭しか使わない龍麻の誘いに簡単にのっていいものか?

 他人が聞いたら呆れるしかない、だが京一にとっては切実な葛藤に気づいたのだろう。龍麻は京一に聞こえない程度の小声で「いじめすぎたかな」と呟くと、やや苦い笑いを浮かべてみせた。

「うち、8階だからさ。けっこう遠くまで見えるんだよな。まあ、ちょっと遠いとこでやるらしいから、あんまりハッキリとは見えないかもしれないけど。……来るか?」

 さほど身長の変わらない京一の目を覗き込むようにして、そう尋ねる。一方、長い前髪の奥でいつになく優しげな光をたたえる龍麻の黒い瞳を間近で見てしまった京一は、寸前までの葛藤もどうでもよくなってしまった。

「行く行く、行かせていただきますッ」

 言ってしまってから自分が何を口走ったのかに気づいたのか、京一がさっと顔をひきつらせる。かと思ったら龍麻が誘ってきたというその事実自体がやはり嬉しいのか頬をゆるませる、といった京一の百面相を横目で見つつ、龍麻はクスクスと笑みをこぼした。

 別にそんなに悩まなくても、今日のは純粋な好意だったんだけどな、と心の中でひとりごちながら。

 

 

 連れていかれたリビングルームは、適度に物があって適度に散らかっている、かしこまる必要のない居心地のいいものだった。

 カーテンの引かれていない窓からは、夕暮れ前の東京の街が見える。ベランダもついているので、外に出ればもっとはっきりと見えるのだろう。壁一面を埋める大きな窓はやや東側に向いているらしく、目を焼く西日も入ってこない。

 アスファルトとコンクリートの固まりが視界を埋める。たまにそのグレーの海の中にもぽつぽつと緑が見えるが、無視してしまっても差し支えがないほどわずかなものだった。

 陽が落ちてネオンやあかりが灯れば、この街はどこよりも美しい場所になる。満天の星空は見えないが、地面に星明かりを砕いてちりばめたような光景が見られる。だが昼間のこの街は、夜中の華やかさをあざ笑うかのように寂しさを漂わせていた。

 夏独特の熱気が遠くをゆがめ、ぼやけて見せる。そんな景色を突っ立ったまま見入る京一を認めて、烏竜茶のペットボトルとグラスを手にキッチンから出てきた龍麻は小さく笑った。

「母さんいないから、あっちこっち散らかってるけどな。気にするな」

 笑みを噛み殺し、龍麻は京一の背中に向かってまったく関係ないことを口にする。その声を耳にしてようやく我に返ったのか、派手に肩をふるわせて京一が振り返った。

 龍麻にしてみれば、外に見入る京一を驚かさないようにさりげなく言葉をかけたつもりだった。だが京一の反応を見る限りでは、その気遣いはあまり効果がなかったらしい。せわしなく瞬きを繰り返してようやく落ちついたのか、京一は深呼吸をしてから龍麻が差し出したグラスを受け取った。

 そしてようやく、言われた言葉の意味を反芻する。そんなこんなで京一がちゃんとした言葉を返せる状態になったのは、龍麻が声をかけてからそこそこの時間がたってからだった。

「え……あァ。でも、ま、俺の部屋よりはキレイだし……」

 だが時間をかけたわりに口をついて出たのはどうしようもない台詞で、京一は思わず頭を抱えたくなる。だがグラスを持っていたことを寸前で思い出して、とりあえず衝動のままに行動するのだけはなんとか押さえ込んだ。

 もっとも龍麻にとって、先刻の一言は京一の意識をこちらに向かせるための手段でしかない。どうでもいい当たり障りのない話題を選んだだけなので、別に京一の返答がどんなに間抜けなものであろうと、特に関心も向けなければ呆れもしなかった。

 かわりにすいっと京一に近づくと、トンとその肩を押す。さほど強い力で押されたわけでもないのにバランスを崩した京一は、そのまま背後にあったソファに倒れ込む羽目に陥った。

「う、うわッ!?」

 かなり強引に座らされた京一はまず後ろにソファがあったことに驚き、次いでグラスが無事だったことに安堵する。よくよく見たらグラスの中身は空っぽで、確かに落としでもしたら割れるかもしれないが、少々振り回したくらいでは別に何も起こりそうにもない。

 もしかしてまた遊ばれたんだろうか、というあまり嬉しくない予測が京一の脳裏をかすめたとき、窓の方から押さえた笑い声が聞こえてきた。

 複雑な表情でそちらを見てみれば、ベランダへと続く窓に寄り掛かった龍麻がクスクスと笑っている。その悪戯が成功した後のような楽しげな笑顔を見た京一は自分の予測が当たってしまったことを知って、思いっきり拗ねた顔を作った。

 そんなはっきり言って情けない京一の反応に満足したのか、龍麻がいつもよりは優しげな笑顔を浮かべる。そして顔だけ外へと向けると、長い指の節で弾くように窓ガラスを叩いた。

「そんなにめずらしいか? ずっと東京にいたんだろ?」

「そうだけどよ。住んでるトコの風景なんて、そうまじまじと見るもんでもねェだろうが」

 ふてくされたままそれでも律儀に答えを返す京一にちらりと視線を投げ、龍麻はくすりと笑みをもらす。それからまた視線を外へと戻すと、納得したような何かを思い出したような、考え深げな表情を見せた。

「ま、それもそうか。東京に住んでる人ほど、東京タワーとか都庁とかには登らないって言うしなあ」

 学校の屋上から下を見下ろすこともあるが、それも大体はグラウンドにいるクラスメイトや学生を見るのに限られる。その屋上よりも、また少し視界の広がる窓の外の世界。

「これが、俺たちの街……俺たちが護りたい街、か。こうやって見てみると、ちょっと寂しいかな。色が少ない」

 そんな街を背に、クーラーの冷気を浴びて冷えたガラス窓に身体を預けた龍麻は。

「夜は……綺麗なのにな」

 心の底を見せない冷めた笑顔で、京一と同じ感想を口にした。

 

 

「……後悔してんのか?」

「まさか。なんで?」

 思わずそう尋ねたら間髪を入れず疑問系の答えが返ってきて、京一はそちらの方に面食らった。

 別に、深い意味があったわけではない。京一自身も、なぜそんなことを聞いてしまったのかわかっていない。龍麻の横顔を見ていたら、なんとなく口をついて出てしまっただけだ。

 別に、後悔していて欲しいわけじゃない。自分たちと、否、自分と共に選んだ道を否定なんてして欲しくない。

 京一はそれだけでは我慢できなかったけれど、急に力に目覚めて戸惑う仲間たちをいつでも動じない笑顔で安心させ、まとめて引っ張ってきたのは龍麻だ。だがなまじ普段は決して見せない龍麻の心に一歩踏み込んだ京一だからこそ、抱く疑問や懸念もある。

 ……いや、たぶん、龍麻がかいま見せた冷めた笑顔に、置いていかれたような気分になっただけなのだ。

 同じことを考えていた、というのに。

「まあ……そりゃ、別に戦いが特別好きってわけじゃないけどさ」

 あまり胸を張って言えない結論にたどり着いたあげくに即座には反応できなかった京一の心中を見透かしたかのように、龍麻がふっと表情を和らげた。

 体重を預けていた窓から離れて京一の側までやってくると、ソファの肘置きに腰を下ろす。そのまま片膝を抱え込み、首を傾げるようにして京一の方を振り返った。

「面倒なことは元々好きじゃないし、別に世話好きでもお人好しってワケでもない。ただ今の生活はけっこう気に入ってるし、仲間と呼べる友達もできた。それは……なくしたくない。まあ、それがこの街を護ることに繋がるなら、別に努力してみるのも悪くないよな」

 それに、東京って街は嫌いじゃないし……みんながいるから。

 「友達」という単語を聞いてやや複雑な気分に陥った京一だったが、まるで付け足しのように言われたその一言に少し浮上したのか、とりあえず何も言わないでおく。

「結局、俺は自分のために戦ってるだけだからな。誰にでも胸を張って言える大義名分ってのもいいけど。でも大切なものを護るためっていうのも、言い換えれば自分が大切なものを失わないため、だろ?」

「そう……だよ、な」

 それなら。

 京一にとっては、龍麻を護ることが、龍麻を失わないことが戦うための理由。

 今さらのようにそう答えを出して、本当に迷っていたのは京一自身だったのだ、ということに気づく。

 弾かれたように龍麻の方を見れば、立てたままの膝に乗せてこちらを見ているその顔は、楽しそうに笑っていた。

「自分の幸せも護れない奴が、他人の幸せなんて護れるはずないしな。自分にできることとできないことくらい、わきまえてる。とりあえずは、身近なトコから始めるのが基本かなって」

 そう言うと。

 身軽な動きで身体の向きを変えた龍麻は、悪戯っぽい笑みを浮かべて。

 京一に、触れるだけのキスをした。

 

 

 今まで京一からキスをしようとして殴り倒されたことはあっても、龍麻の方からしてきたことなんて当然のことながら一度もない。

 記憶にないだけか、いやでもそんな嬉しいことがあったらたとえ寝ていたって気づかないはずがないと思い直した京一は、自分がどのくらいのあいだ固まったまま動かないでいたかにまったく気づいていなかった。

「ちょ……ちょ、ひーちゃん」

「あ、やっと動いた。なんだ?」

 ある意味とんでもなく失礼な反応を示した京一に対して別に気分を害するでもなく、龍麻は機嫌良く至近距離で京一の顔を覗き込んでいる。龍麻にとっては、京一を驚かせたり慌てさせたりすること自体が娯楽なのだ。

 そんな龍麻の性格は身を持って知っているはずの京一ではあったが、常日頃から「恋愛なんて面倒なだけ」と態度で示す龍麻もよく知っているのでそこまで頭が回らない。寸前で、思考がストップする。

 それでも必死になって砕け散った言葉を拾い集め、形にする。ただあまりに動揺していたせいで、やはり口から出た台詞はどこまでもどうしようもなかった。

「い……今の、ナニ?」

「キス。知らないわけないよな?」

「そうじゃなくってだなァ……え?」

 どういう意味なんだと続けようとして、京一は現在の状況に気づいた。

 この部屋には、京一と龍麻以外、誰もいなくて。

 そして鼻先が触れ合うほど近くに、龍麻の顔がある。

 いつもは長い前髪が邪魔で覗き込めない瞳がすぐ近くにある。光彩も黒いその瞳は楽しげに輝いている中に、きっと本人は意識していないであろう艶も含んでいた。

 それを見てしまった途端、背筋に甘い痺れが走る。このままでは非常にヤバいことになるとそれだけは即座に思い至った京一は、意志に反して龍麻を抱きしめそうになる両腕を必死に押さえ込みつつ、かなり情けない声を絞り出した。

「……これ以上は、その、マズくねェか」

「なにが?」

 わかっているくせにそう聞き返しておいて、龍麻はぺろりと京一の鼻先を舐める。反射的に肩をすくめた京一を見て小さく笑うと、ソファの背に置いて自分を支えていた腕を外し、そのまま京一の首へと回した。

 立ったままの龍麻に抱かれる形になった京一は、途方に暮れた表情で上から自分を覗き込む龍麻を見上げる。

「だから……俺の理性が」

 なのに精一杯の自制心を働かせて言った台詞は、あっさりと当の相手にはたき落とされてしまった。

「保たないって? へぇ、保たす気があったのか、意外だな」

「あ、あのなァ……じゃなかったら、今のこの俺の涙ぐましい努力はナンだってんだよッ!」

「努力しなきゃいいんじゃないの? 嫌がる相手にするのはそりゃまずいけど、嫌がってない相手なら別に問題ないし」

 まるで人ごとのようにそう言うと、龍麻は極上の笑みを浮かべる。そーゆー問題かよと思いつつも、京一がその誘惑に打ち勝つことができるはずもなかった。

 それでも今までに繰り返されてきた手痛い反撃が身にしみているのか、おそるおそる龍麻の腰へと手を回す。わずかに力を込めると、ふわりと黒髪が京一の頬にかかった。

 自然と、唇が重なる。触れるだけでない、深い口づけ。軽く背中に置かれていたはずの龍麻の手が、いつのまにか京一の制服のシャツを強く掴んでいる。

 そのまま龍麻の耳へと唇を寄せて、京一は小さく囁いた。

「本当に……いいのかよ?」

 心の中ではこうなることを望んでいたはずなのに、本当にこのまま進んでしまっていいのか、京一はまだ思い切ることができないでいた。

 それは、龍麻の気持ちを何も聞いていないからだ。確かに、誘ってきたのは龍麻自身。でも。

「……バカだなぁ、京一って」

 呆れたように、龍麻が笑う。もっとも自分がいじめすぎたという自覚があるので、あまり頭ごなしにバカにするわけにもいかなかっただけなのだが。

「さっき言っただろ? とりあえず、自分と身近な奴から幸せになってみようって。……好きでもない奴とこんなことしてみようと思うほど、俺は物好きでもヒマでもないよ」

 だから、余計なことにまで気を回す必要はないのだと。

 首筋に降りようとする京一の唇も許容して、龍麻はふと思い出したように呟いた。

「……言っておくけど、京一」

「なんだよ?」

 何事か、と京一が顔を上げる。何もわざわざ中断しなくても、と心の中で溜息をついてから、龍麻は悪戯心を起こしたのかにっこりと微笑んだ。

「……いいや、秘密」

「……お〜い……」

 情けない表情を浮かべる京一の顔を引き寄せて、黙らせる。

 そのまま京一の首筋に顔を埋めると、龍麻はくすりと笑みをもらした。

 

 誰も意識を払わなくなった窓ガラスの向こうで。

 すっかり暗くなった東の空に、軽い音をたてて花火が一つ、上がった。

 

 

 

 たぶん、京一を手放さないためならなんでもできるのだ、と。

「後悔? するわけねェだろ。そんなモンするくらいなら、最初っからこんなこと言ったりしねェよ」

 たとえ告げたことはなくても、すでに失うことすら考えられないほど特別な人であるのだ、と。

「……物好きだよな、京一って」

 龍麻自身、思わず顔をしかめてしまいたくなるような本音を京一が聞かせてもらえる日は、きっと一生やってこない。

 


■虚構文書■