「あうち!!」
夕方のキッチンに、アッシュの悲鳴が響いた。
すでに日課となっている、夕食の支度をしている真っ最中のことだ。魚の硬い骨をたたっ切ろうとしたら、勢い余って自分の手まで切ってしまった。
しかも、かなり深い。幸いなことに骨にまでは達していないようだが、動脈に近いせいかまさに吹き出す勢いで血が流れ出した。
「うわ、やべ、ど〜しよ!」
こんな時ばかりは自分の馬鹿力がうらめしい。慌てて止血のために手首を押さえたが、あふれ出した血は見る間にシンクを赤く染めていく。
あまりにも派手な自分の出血を見て貧血を起こしかけていると、やたら冷静な声音の持ち主がキッチンに姿を現した。
「なにをやっているのだ」
日光は苦手ではないと言いつつ、さっきまで延々惰眠を貪っていたらしいユーリだ。
いつもは華麗なステージ衣装に身を包んでいる彼だが、今日はオフなのでTシャツに革パンツという、気怠げなロッカーそのものといった格好をしている。
キッチンへと入ってきたものの、騒ぎの原因に思い当たらず怪訝そうな顔をしていたユーリは、血の匂いをかぎつけたのかクンと鼻を鳴らした。
「ユッ、ユッ、ユーリ、どーしたらいいんスかこれ」
自分で引き起こしたこととはいえどうしていいのかわからず蒼白になっているアッシュの腕を取ると、ユーリはいきなり血のあふれる傷口に唇を付けた。
(・・・うわ・・・)
ユーリの鋭い牙が、出血の止まらない手のひらに当たる。柔らかい舌がズキズキと痛む傷口をなぞる感触に、アッシュは貧血が原因ではない目眩を感じた。
そんな怪我人の様子にはお構いなしに、ユーリは半ば陶然とした表情で血を吸っている。白い喉が時たま動く様子が、妙になまめかしい。
頭が真っ白になったまま、アッシュはユーリの伏せられた長い睫を凝視する。と、ふいに目線を合わせられて心臓が跳ねた。
「・・・どうした?」
「あ、え、いや・・・」
普段のアッシュならここで耳まで真っ赤になっているだろうが、いかんせん貧血状態なので青い顔のまま言葉をつまらせた。
ユーリは答えを促すように、長い前髪に隠れたアッシュの目をのぞきこむ。
まさか今自分が思ったことをそのまま口にできるわけもない。アッシュは何か言わねばと必死に言葉を探した。
「ユ、ユーリのご飯は、やっぱり血の方がいいのかなって・・・」
・・・かなりマヌケなことを言ってしまった。
しかし<血を吸う>というユーリの行為が、まるで水を飲むかのように自然に見えたのも確かだ。
「・・・やはりヴァンパイアだからな。たまには吸血しないわけにはいかないが、毎日血だと飽きるぞ」
それを聞いて一瞬きょとんとした表情になったユーリだったが、すぐにいつも通りのシニカルな笑みを浮かべた。
そして隣室からファーストエイドキットを持ってくると、アッシュの傷口を水で洗い流し椅子に座らせた。そのまま動かないようにと指示を出し、褐色の手に手際よく包帯を巻いていく。
「飽きるって・・・」
「狼だって毎日肉ばっかり食ってるわけではないだろう?」
ユーリはアッシュが料理しようとしていた魚を、目線で指し示した。
「・・・でも、それ以外の食べ物でヴァンパイアに必要な栄養素って摂れるんスか?」
「じゃなかったら、私はこんなに長く生きていないのではないか?」
自分の手にくるくると巻かれていく包帯を見ていたら、下がっていた血が少し戻ってきたようだ。やや落ち着きを取り戻したアッシュは、この際なので普段から気になっていたことを聞いてみることにした。
「それはそうっスけど、俺一応バンドのメンバーの健康管理もまかされてるんだし、そのせいでユーリに体調崩されたりしたらヤバいかなって・・・」
「・・・だったらどうするのだ。おまえがたまに吸血させてくれるとでも言うのか?」
「う〜〜〜ん、俺けっこう血の気が多いからそれも有りっスかね。」
真剣に悩み始めてしまった妙に生真面目なところのある狼男を、ユーリは呆れた顔で見下ろした。
「なまじ不健康なヤツの血を飲むより、その他の食物の方が安全なこともあるだろう。おまえの血は少しビタミンが足りないような味がしたぞ、もっと野菜を食え」
「へ? 血の味でそんなことまで解るんスか!?」
「冗談だ」
思わず感嘆の声をあげたアッシュを、ユーリは一刀両断に斬り捨てた。 |