First

 


 

 

 空は澄んだ紺碧の星空。

 夜空を満たす空気は、澄んでいる。

 夏のようにうだる暑さはなく、冬のように冷たく身を切る寒さもない。春のように、すべてを花霞で覆ってしまうようなあいまいさもない。

 ほどよい風が肌にたわむれ、いずこかへと消えていく。

 夜空で輝くのは、やや欠けた真珠色の月。

 月と星々がそっと見守るなか、今日の夜も静かにふけ、そして朝を迎えるはずであった。

 

 そう……この時までは。

 

 

「レン様っっっっっっっ!!!!!!」

 バタン!

 と、そのまま扉が外れて落ちてもおかしくないくらい派手な音を響かせて彼がその部屋に入ってきたのは、ある晴れた秋の夜のことである。

 大概のことには動じないその部屋の主もさすがに驚いたのか、目を丸くして騒々しい来客の顔をまじまじと見つめた。

「ど……どうしたんだい?」

 王国にかかわる緊急の事態が起こったわけでは、ない。

 もし本当に緊急の事態が起こったのだったら、彼はもう少し落ちついて現れるだろう。まだ少年というべき年齢の頃から彼を教育してきた漆黒の聖騎士には、それはよくわかっている。

 と、いうことは。

 どう見ても怒っているような気がする、こういう場合は。

 自覚がありまくる以上、心当たりがないなんて厚顔無恥なことは、さすがの漆黒の聖騎士、レン・ムワヴィアでも言えないらしい。
 が、自分から進んで雷を呼び寄せる気もないようだ。いつものようにはぐらかすための微笑を漏らすわけでもなく、開き直った笑顔を浮かべるわけでもなく、あくまでも「何が起こったかわからずに驚いている」というポーズを作っている。

 もっとも、レンが彼を少年の頃から見ていたというのなら、当然彼も少年の頃からこの私生活に問題のありまくる上司を見てきたわけで。
 ずかずかとレンの前へと歩を進めると、自分とレンの間に横たわるなんの罪もないデスクに、これまた派手な音をたてて両手をたたきつけた。

「……そんな顔をなさっても、ムダですよ」

 どうやら、完全にバレているらしい。
 なまじ顔が整っているだけに、全身からおどろ線を漂わせ、静かに怒りに燃えている状態というのはものすごい迫力を醸し出す。

 普通の人間であればそれだけで震え上がって、それこそあることないことをあらいざらいしゃべってしまうのであろうが、彼の上司である人外魔境にはそこまでの効果はのぞめなかった。

「別に、隠してたわけじゃないんだけどね」

 バレたならバレたでいいのか、元々隠そうなどとは思っていなかったのか、調子を取り戻したかのようにレンはいつもの朗らかな笑顔を見せる。

 その様子に挑発されることも逆に脱力することもなく、黒翠の聖騎士は淡々と口を開いた。

「隠す、隠さないの問題ではないでしょう。私は、くれぐれも自制してください、と申し上げたはずです。一体、どういうおつもりなんです?」
「深い意味はないんだけどなあ」
「別に、深かろうが浅かろうが結構ですよ。私がお聞きしたいのは、なぜつい先ほどまでこの塔に燐光の聖騎士殿がいらしたのか、ということだけですから」
「ここにいたって言っても、あの子はほとんど眠ってただけじゃないか」
「同じことです」

 静かだが、その言葉にはあちこちトゲが刺さりまくっている。
 なまじ少々ヤバいことをしたかも、という自覚があるだけに、レンはあまり強気に出られない。

「ロテール殿が遠征先で倒れたというのは、私も陛下からお聞きしましたから知ってます。ですから、レン様がさぞかし心配なさってるだろうと思ってはいましたけどね。もしかしたら遠征先まで行ってらっしゃるんじゃないか、くらいは想像しました。ですが」

 いつもであればここでわざとらしくため息のひとつでもつくところだが、どうやら今日はその程度の演出にすら気が回らないようだ。

 誰もいない時を狙ったのになあ、というレンの小声の呟きは握った拳を震わせながらも聞こえないフリをして、彼はじろりと上司を睨み付けた。

「いくら治療のためとはいえ、怪我人を空間転移させますか、普通? しかも、ここに」

 

 

Second

 


 

 

 その日は、朝から騒がしかった。

 隣国が、おそらく様子見とはいえ国境を越えて軍を派遣してきたのだから、当然その場を包む雰囲気がのどかなわけはなかった。

 辺境の哨戒任務などで、それなりにみな実戦はこなしている。だが、本当に人と人とが傷つけあい、命を奪い合う戦争というものを体験したことがある者は、さほど多くはない。

 しかも、今回は聖乙女の試験期間中ということもあり、聖乙女候補生も戦闘に参加している。
 彼女を守らなければ、という気負いが騎士団中に生まれるのも仕方がなかった。

 候補生とはいえども、聖乙女だ。下手をすれば守られるのは自分たちのほうだったりするのだが、思考はそこまで発展しない。冷静に判断できる者が多ければ、こんな状況に陥りはしないだろう。

 それほどに、浮足立っていた。いつもよりも気を引き締めていかなければいけない時なのに。

「やれやれ……やりにくいな。レオンのほうもこんな感じかねえ」

 ここから馬を全速力で走らせれば半日ほどでたどり着く場所で、同じくこのやっかいな状態に頭を痛めているであろう同僚の顔を思い浮かべて、ロテールは苦々しい笑みを見せる。

 

 そして嫌な予感というものは、えてして当たってしまうものなのだ。

 

 

 倒されたと思ったギアール兵士が動いたことに気がついたのは、ロテールだけだった。

 その手に握られていた短剣に気がついたのも、当然ロテールしかいなかった。

 そして更に運が悪いことに、その兵士のいちばん近くにいたのは、ロテールではなかった。聖乙女候補生……ミュイール・メルロワーズだったのだ。しかも、兵士の方に背を向けて。

 おそらく声を出しても、彼女の反応スピードでは避けきれない。魔法を唱えていては間に合わない。

 しかし、考えている暇はない。
 剣をないで目前に立ちふさがる敵を切り払い、走りながら叫ぶ。

「ミュイール! 避けろ!」

 

 ミュイールがその声に反応して振り返ったのと、ロテールが手にした剣でその兵士の首を跳ね飛ばしたのと、兵士が手にした短剣が鎧の隙間をぬってロテールの身体に深々と突き刺さったのは……ほぼ同時のことだった。

 そして、その短剣の刃がわずかに変色していたことに気がついた者は、誰もいなかった。

 

 ……燐光の聖騎士が原因不明の発熱で倒れたのは、それから3時間後のことである。

 

 

 

 

 

 

 すっとなにか重いものが身体から抜けていくような感覚に、混濁していた意識の一部が目を覚ました。
 目は開かないが、誰かがいる気配がする。身体はだるくてこのまま沈んでいってしまいそうだったが、気分はさほど悪くなかった。

「この程度の毒の解毒方法もわからないなんて、まったくなんの勉強をしているんだろうね」

 聞き慣れた柔らかい声が耳に響く。

「まあ、かなり古いものだから……よほど文献を詳しく読んでいるような者にしかわからないか。となると……これを使った奴は、一体どこから仕入れてきたんだ?」

 なにかをすりつぶすような音が聞こえる。

 音が止むと、今度は唇になにか柔らかいものが触れた。

 触れた場所から、苦い液体が流し込まれる。よくわからないが、この体勢では飲み込まないわけにはいかない。どう甘く採点しようと「まずい」としか言いようのないものだったが、寝ているのか覚めているのか自分でも理解していないロテールに、選択の余地はなかった。

 しかも、苦みが後をひく。

 あまりのまずさに、一気に意識と身体が覚醒する。そのままのろのろと目を開けたロテールの視界に飛び込んできたのは、至近距離でこちらを見つめているそこにいるはずのない恋人の顔だった。

「…………!!!!!」

 驚愕のあまり声も出ないロテールの反応を見て、驚かせた張本人はクスクスと笑い声をあげる。顔をあげると手にした器をサイドテーブルに置いて、レンは優しくロテールの金の髪をすいた。

「意外と早く気がついたね。にしても……そこまで露骨に驚くことはないんじゃないかな?」
「だ……誰だって驚くと思うぞ……」

 それじゃなくても弱っている身体によけいな衝撃を与えたのがまずかったのか、起きあがろうにも起きあがれない。

 枕に頭を落としたままレンに恨みがましい視線を送ってみても、鼻で笑われただけだった。

「まだまだ修行が足りないね。まったく、こんな毒にはひっかかるし」
「毒……?」

 何を言っているのかわからないと言いたげな視線で、ロテールはレンの顔を窺う。

 レンはレンで、そのロテールの「何もわかっていない」返答に、とうとう皮肉を言ってみる気力も萎えたらしい。
 あきらめたような表情でロテールが上半身を起こすのを手伝うと、別の液体が入った器を差し出した。

「ほら、これも飲む。……やれやれ、まさか自分が毒殺されかかったことにも気がつかなかった、なんて言いだすとは思わなかったよ」
「ぐえ、これもマズイ……って、まさか、あの短剣か?」

 それでも中身を全部飲み干してから、ロテールは唯一の心当たりを思い浮かべる。

 あの時はそこまで目がいかなかったが、毒が体内に入るとすればあの時だけだ。刺された傷は少々深かったものの治癒の法術ですぐに癒せてしまったのだが、そんな置きみやげがあったとは。

「俺はその場にいたわけじゃないから、詳しいことは知らないけどね。毒を塗った短剣で刺された後をただ魔法で傷口塞いだだけにしておくなんて、ものぐさもいいところだ。どうやらみんなそこまでは思いつかなかったらしくて、ただ『団長が倒れた』って慌ててるだけだったけど」

 毒が塗ってあったなんて思ってもいなかったのだから、解毒治療をしようなんて思いつきもしないのは当たり前である。

 ものぐさと言われようなんと言われようと、仕方ない。何も言えないまま、レンが次々と手渡す薬を飲んでいく。
 粉末、液体と種類もさまざまだったが、どれもこれも苦くてまずいのだけはいっしょだった。

「おおまかな毒素は抜けたはずだけど、しばらくは無理をしないようにね。あの毒は神経に影響を及ぼすから、完全に影響が抜けきるまではちゃんとこれらの薬を飲むこと。放ったらかしてたら、ろくでもない障害が出てくるよ」
「あ……ありがとう。にしても……レンが毒に詳しいとは知らなかったな」
「昔はこれくらい常識だったんだけどねえ……」
「え?」
「ああ、いや、こっちのこと。これにこりたら、少しは君も勉強するんだね」
「う……」

 まったく反論できないのは確かだったが、なぜここにレンがいるのかは知りたかった。

 レンの手を借りて横になりながら、ロテールはその疑問を口にする。

「ところで……なんでレンがここにいるんだ?」
「ずいぶんだね。君が原因不明の高熱で倒れたっていうから、心配して飛んできたんじゃないか」
「いや、えーと、それは感謝するというか……」

 アルバレア王都から燐光騎士団が駐屯している砦までは約1日はかかる距離があるのだが、やはり余計な体力を消耗したせいか頭の回転がいつもより鈍くなっているロテールは、そこまで頭が働かない。

 それでも自分が寝かされている部屋を見回して、そこが砦内の自室でないことには気がついた。

「あれ……ここ、どこだ?」
「病院とでも思っておけば?」
「思っておけって……要するに、ここは病院じゃあないんだろう?」
「当たり前じゃないか」
「???」

 聞いてみたのはいいが、よけいに何がなんだかわからなくなってくる。

 そのうち、目覚めたばかりのはずなのに眠気が襲ってきた。このまま眠ってしまったら後悔しそうな気がして、ロテールは必死になってレンへと腕を伸ばす。

 たとえいつの間に現れたのかわからなくても、それでもレンに会えたことは嬉しかった。しかも自分の命を助けてくれたのは、どうやらレンらしい。まともに礼も言っていなかったような気もするのに、そろそろ眠気を堪えることもできなくなってくる。

 情けないだの修行が足りないだの言葉に容赦はなかったレンだが、それでも柔らかい笑みを浮かべるとロテールの手を取り、そっとささやいた。

「病人はおとなしく寝なさい。目が覚めたら……きっと、なにもかも良くなっているよ」
 薬の効果が現れてきたのか、意識が朦朧としてきたロテールの額に、優しく口づける。

「そうそう、俺のことは、誰にも言わないようにね……」

 その言葉にうなずいたのかどうかもわからないまま、ロテールの意識は闇に沈んでいった。

 

 

 次の日ロテールが目覚めた場所は、遠征中の燐光騎士団の宿泊地となっている砦の自室だった。

 昨日の出来事は夢だったのか現実だったのか判断しかねる彼の目に入ったのは、サイドテーブルに並べられた苦い薬の山であったという。

 

 

Third

 


 

 

「だって、仕方ないだろう? あの毒は魔法だけじゃ解毒しきれないし、あんなカビが生えた本にしか調合方法が書いてないような薬草、このご時世に使う機会があるなんて思わないじゃないか」

 別に伊達と酔狂でこの塔に連れてきたわけじゃないと、一応の弁解はしてみることにしたらしいレンである。

「材料の採取はしてあったけど、なんせ調合なんてしてなかったからあそこじゃ無理がある。それに、俺がロテールの部屋にいつまでもいたら、それはそれで問題じゃないか。器具があって病人を安静にさせておけて、ついでに人がこないなんて都合のいいところ、ここ以外にはないと思わないかい?」

 ついでにあのロテールの状態であれば、どこに連れて行こうが別に違和感も疑問も覚えないだろう、という確信もあった。

 実際ロテールが起きていたのはほんの5分程度で、とりあえず自室ではないということには気がついたようだが、適当に煙に巻いても追求すらしてこなかった。いつものロテールからは考えられないことではあるが、高熱と毒によって弱った身体と思考能力、そしてレンが与えた催眠効果のある薬の数々のことを考えれば当然のことである。

 それに、ロテールには無意識のうちに生じている、レンに対する信頼というものがある。
 たとえその正体さえ知らなくても、この人が自分にとってマイナスとなることをするはずがない、と無意識ののなかで判断している。

 だからこそレンの言うことは素直に聞くし、他には冷めた態度をとっていてもレンには甘えてくる。レンからしてみればそんなロテールはとにかく可愛い存在だったし、自分のすべてを自分から見せてきてくれるからこそ、レンにもロテールに対する信頼があった。

 たとえなにかを察したとしても、レン自身が本当のことを口にするまでは気づかなかったふりを続けてくれるだろう、という打算も少しはあったが。

「……ああもう、はいはい、わかりました。ロテール殿にバレたらバレたで、陛下を説得すればいい話ですしね。当然! その時は、きちんとレン様自らに釈明していただきますから」

 放っておけばいくつでももっともらしい理由を探してきそうな上司の態度に怒るのもバカバカしくなったのか、黒翠の聖騎士は心からため息をつくと肩から力を抜いた。
 この機を逃したらまた説教が待っているとばかりに、レンは彼にソファをすすめる。すっかり無駄な労力を使って気分的に疲れ切っていた彼は、すすめられるままにソファへと沈んだ。

 さすがに悪いことをしたという自覚はあるのか、めずらしくレンが自らコーヒーをいれて運んでくる。そんな上司の姿を見て、彼は心持ち表情を和らげた。

「どうもありがとうございます……わが一族の当主はなぜ先祖代々髪が薄くなるのが早いのかと思っていたんですが、なんだか今日でその謎が解けたような気がいたしますよ」
「あははは……俺のせいだって言いたいんだろう? まあ、あながち間違ってもないような気はするねえ」

 否定しないところがさすがである。

「ところで……前々から、機会があればお聞きしたいと思っていたんですが」
「なんだい?」
「よろしいですか? ロテール殿の、どこにそんなに惹かれたんです?」

 想像すらしていなかった質問を唐突に投げかけられて、レンは不覚にもコーヒーカップを手にしたまま硬直した。

 

 

「そ……そうくるか。一本取られたかもな」
「あらいざらい白状していただきますよ。私には、その権利は十分ありそうですので」

 これまでの報復とばかりに上司を慌てさせた張本人は、涼しい顔でコーヒーの味を楽しんでいる。

「火遊びが減ったのはこちらとしても喜ばしいことですが、その代わりに別の心労が増えていますのでね」
「はあ〜、妬いてるのかな?」

 レンが楽しそうに笑ってこう言っても、彼は動揺すらしない。
 この程度でいちいち動揺していたようでは、レンの下で働いてなんていられない、とも言うが。

「ご・冗・談・を。私には、愛しい妻と目に入れても痛くないくらい可愛い子どもがおりますので」

 当然、かわし方にも堂が入っている。

 だてに長い間つき合ってはいない、ということだろう。

「堅物だな。少しくらいは娯楽につきあってくれてもいいと思うんだけどね」
「……十分、レン様の火遊びにつき合わされたような気はするんですが……?」
「そこで、真面目な顔して睨まないでくれるかい?」
「話をそらそうとなさっても駄目ですよ」

 またも、あっさりと言い切られる。

 どうやらうやむやにするのは無理と悟ったのか、レンはやれやれと呟きながら足を組み替えた。

「そんなこと聞いて、どうするんだいー?
「そのうちロテール殿がレン様の直属の部下になるかもしれない以上、表の近衛騎士団長としてはおうかがいしておきたいところですね。また火遊びが復活したときの保険にもなりますし」
「あ、そ……」

 この手のことに関しては、我ながらとことん信用されていないらしい。

 今更ながら、レンはそう思い知らされる。実際、なけなしは残っていたかもしれない信用を足下から崩したのは、他ならぬ自分であるから何も言えない。

「……ロテールにも言ったことないんだけどねえ」
「ということは、私が一番乗りですか。光栄ですね」
「…………」

 ため息ひとつついて、覚悟を決める。
 このまま見逃してもくれないだろうから、それなら素直に言ってしまうに限る。

 しばらくはそれをネタに遊ばれるだろうが、そのうち飽きるだろう……と、心の中で呟く。
 おそらく。
 多分。
 きっと。

「そうだねえ……一目惚れって言ったら、信じるかい?」

 

 

Forth

 


 

 

 まず一番に目を惹いたのは、その外見だった。

 金の髪に紫の瞳。
 一見どこにでもいそうな配色でも、レンにとっては特別な色だった。

 誰よりも大切な存在だったのに、彼女の想いに応えることだけはできなかった。そもそも、彼女が生きている間に気づくことさえできなかった。もし気づいたとしても、彼女が自分の妹である以上、そしてすでに人の妻となっている以上、なにができたわけでもないのだが。

 それはもう、覚えている者などほかに誰もいない時代の昔話。
 レンの記憶の中からも、ほぼ消えかけている思い出だ。残っているのは、無意識のうちに目が追うその色彩だけだった。

 だからそのまま消え去るつもりが、つい声をかけてしまった。心の安らぐ場所を求めている者にしか探し出せない、秘畢の丘への道を登ってきた人物への好奇心もあった。

 そう、はじめは……ただの好奇心に過ぎなかった。

 毛色の変わった猫、くらいにしか考えていなかった。それが毛色の変わった迷子の子猫だったとわかったとき、レンの中でもなにかが変わったような気がした。

 はじめからお互い納得ずくで、身体だけの関係を続けていた相手とも違う。最初から利用するつもりでつき合いを続けていた女たちとも違う。
 彼が……ロテールが望んで、手に入らないものは恐らくないだろう。そんな思いこみのフィルターを取り除いて見てみれば、彼は心に空洞を抱えた人間だった。

 心に負った傷が深すぎて、それ以上傷を広げるのが恐くて、心を閉ざしてしまった。一見誰にでも愛想がよく、誰をも受け入れているようで誰も受け入れない。無理に入ろうとしても、柔らかい、しかしきっぱりとした拒絶が待っている。

 そんなロテールが自ら心を開こうとしたのは、レンがはじめてだったのだろう。たとえそれが、兄に頼る弟のような信頼でもよかった。迷子の子猫が安住の地を見つけようとする姿に、そしてそれを見つけたと知った時の嬉しそうな笑顔に、レンが捕らえられてしまったのだから。

 彼の心に闇があったから、惹かれたわけではない。

 心の闇を自ら癒そうとする、その光に惹かれたのだ。

 

 それゆえに、必ず手に入れると心に決めた。闇に生きる自分と共にあっても、なお光輝ける者。しかもその光を導き出せるのが自分であれば、言うことはない。
 待つのは慣れている。時間はいくらでもある。だから、まずは仮約束だけでいい。

 本当に彼を手に入れるのは、まだ先でいい。ロテール自身がレンと共に生きることを選んでくれなければ、なんの意味もないのだから。

 

 

 長い時間を生き過ぎ、乾きかけた心を優しく照らした光。

 闇は光に焦がれ、光は闇を求める……そういうことなのかもしれない。

 

 

「で……どうして、それを本人におっしゃらないわけです?」
「なんでって、そりゃ、その方が面白いからに決まってるじゃないか」

 

 黒翠の聖騎士が、つい燐光の聖騎士に深く深ーく同情してしまったのは、言うまでもない。

 


The End

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